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インタビュー:K・元美津氏未亡人・本水光子さんに聞く 

インタビュー ~ K・元美津氏未亡人・本水光子さんに聞く 

2015年の暮れの某日、故K・元美津氏の未亡人である本水光子さんに、お会いすることが出来ました。現在、本水光子さんが住む埼玉県某市にて貴重な御話しを聞かせて頂きました、

本水光子さんは2016年現在、埼玉県某市にて一人暮らしをされています。御長男家族が御近所にお住まいで、御長男様宅の居間にてK・元美津氏の遺品を前に約2時間半に及んだインタビュー(というより、お話を聞かせて頂いた、という方が適当な言い方ですね)、ハクダイの準備不足もあり、話題があちらこちらへ飛びましたが、非常に有意義な時間を過ごせました。

その席上、話題になった事項をハクダイが再構成し、本水さんの修正を経て、出来上がったモノが、本インタビューとなります。尚、貸本マンガ史研究会による「貸本マンガ史研究第20号」/2009年(平21)3月発行に掲載された「K・元美津のこと」と題された本水光子さんの寄稿文が本インタビューに先行する形で存在します。機会がありましたら是非一読して頂きたい内容です。ちなみに寄稿者の名前が「本水光子」では無く、「水本光子」と誤植されています。

◎ハクダイ:ハクダイのカカク管理人
本水光子さん:本水さん部分を青字で表記します。以下同様。
・注釈部分(ハクダイによる注釈部分。緑色で表記します。以下同様)。

 ◎ インタビューさせて頂きたいという突然の申し出にもかかわらず、お招きいただきありがとうございます。
遠い所までお運び下さってご苦労様でした。
◎ K・元美津さんが亡くなって、二十年近くになりますよね。
亡くなったのは1996(平成8)年の9月ですから。

◎亡くなった当時(1996年)は、埼玉県内にお住まいだったのですか?その頃夫婦で栃木県に住んでいました。亡くなったのは1996(平成8)927日です。死因はすい臓癌です。最後は国立栃木病院だったので遺体を埼玉まで運び自宅で葬儀をあげました。

◎癌で亡くなっていたのですね、初めて知りました。

生前、地域でスポーツ活動(主にソフトボールの監督)をしていた事もあり、葬儀には約250名くらいの方が来てくださいました。庭の芝生の上にテントを数丁張り、皆さんに飲食して頂きました。漫画家関係の方は2階の6畳間にあがって頂きました。

(写真を見せていただきながら)、大勢の方が参列されてますね。
葬儀の日が、ちょうど藤子・F・不二雄さんと一緒の日だったんですよ。

◎ああ、それは奇遇というか、漫画の神様の思し召しというか・・・藤子Fさんとは、確か2歳違いですよね。故藤子F氏は昭和8年、故K氏は昭和10年の生まれ。2歳違いで、学年で考えても2学年違い。

その流れで足を運んでくださった方もいらして・・・。

◎まさに御二方とも、手塚フォロワー第一世代ですよね。この写真・・・マンガ家さんは・・・さいとう・たかをさんの顔がありますね。あとは、・・・申し訳ないです(苦笑)、あんまり知った顔が無い。勉強不足で済みません。葬儀の時の写真には、さいとう・たかを氏などの顔が並ぶが、勉強不足であまり特定できる方が居ないのが残念。さいとう・プロないしはリイド社にゆかりのある方が多いように想像します。

私はKの生前には、(マンガ家さん達とは)、あまり面識がなかったのでお顔を拝見してもどなたか分からない方が多くて・・・

◎普通の会社員の奥さんでも、そういう方は多いかもしれませんね(苦笑)。K・元美津さんについては、京都出身で劇画工房のメンバーであった。さいとう・プロ作品の脚本を多く手掛けた。ゴルゴ13の脚本数は、脚本家中では最多の81本。これら以外は殆どデータが無くて・・・。特にまとまったモノは少ないですね。Kさんについて少しでも教えて頂ければと思います。ゴルゴ13の担当脚本数情報(81本)は、2016年3月時点でのウイキペデキア情報を参考にしています。

●仕事の事は、あまりわからないかも・・・・。

◎Kさん(故K・元美津氏、以下同様)と、本水さん(光子夫人、以下同様)、そして山森ススムさんは、京都の中学校で同級生だったとお聞きしていますが。

中学2年の時にKの父が亡くなり、私たちの学校に転校して来ました。山森さんの家とは数分の所です。裕福な家庭だったようですが、Kは父の死により(高校への)進学も叶いませんでした。すぐ上のお兄さんまでは進学しているのに。

◎中学校の頃から、絵というか漫画は上手だったのでしょうか?

京都新聞に4コマ漫画を送ったら入選したと聞いたことがありますが時期ははっきりしません。山森さんならご存知かも知れませんね。

◎新聞に4コマ漫画を投稿。昭和20年代の漫画好きの子どもは、そういうカタチで漫画家の道へ入っていく方が多いですよね。

●写実画やポスターが残っていますがとても緻密な画風ですね。性格が良く出ていると思います。

◎たくさんは無いですけど結構残っていますね・・・・。当たり前ですが達者ですねぇ。中学生の頃の美術の時間に制作されたと思われる「作品~あるいは習作」が残されていて、手に取って見る事ができた。昭和20年代、終戦後数年という時期を考えれば、保存状態も良く、昭和39年生まれのハクダイの目からみた限りでは、さほど古めかしいという感じはしない保存状態でした。

以前、中学時代に書いたと思われるフィリックスの絵を見ました。5センチ幅位の硫酸紙にパラパラ漫画のように連続した動きで1メートル程の長さに描いてあって幻燈で映そうとしたのかなと思いました。このインタビューの後で、山森ススム先生からも「モトミズは、フィリックスの絵ばかり描いてた」旨の証言を山森ススムさんの御家族経由で得ることが出来ました。

◎幻燈で映す・・・それは、非常に興味深いエピソードですね。原始的なアニメーションないしは、スライドショー?みたいな事を考えたのかもしれませんね。山森ススムさんの御家族経由で確認して頂いたところ、幻燈作成のエピソードは山森ススムさんもよく覚えていたようです。山森さん、Kさんの二人でセロファンに別々に漫画を描いて油を塗って光沢を出し、山森さんの兄が箱に電灯を入れてレンズを付けて幻燈機を作り、クラスで夜に上映したとの事。担任の先生が、2人は漫画家になればいいと言った、との事です。

●あっ、フィリックスは当時のアメリカで人気の漫画のネコのキャラクターですね。

◎フィリックスは知ってます(苦笑)。中学生の頃からKさんと接されてきたわけですが?どのような感性の持ち主でしたか? 歳を重ねれば、人間変っていくのは重々承知していますが。

十代の頃は腕白だったですよ、今風にわかりやすく言うと。私は4人姉妹で身近に男の子がいなかったので、転校まもない彼が蛇の尻尾を持ってブルンブルン振り回しているのを見て、息が止まりそうなほどびっくりしました。

◎ハハハ・・・・男の子はそういうの好きですからねえ。

性格はどちらかと言うと控えめで、所謂『能ある鷹は爪を隠す』タイプ。人間関係を大切にし、人を裏切る事は考えられません。きっと生涯、人に憎まれた事は無いと思います。

◎控えめな性格というのは、ちょっと意外な気もしますが、納得できるところではありますね。

学芸会で『リヤ王』をやった時は王様役でした。勉強も運動も良く出来ました。山森さんとは水泳部で一緒でした。

◎水泳部で山森さんと一緒というのは、山森さんからも伺いましたね。同じクラスの漫画好き同士で水泳部。Kさんも山森さんも、スポーツは得意だったんですね。

●Kのお父さんは京都美専の日本画科の出です。今でいうテキスタルデザイナーとして着物柄のデザインを行っていました。著名な堂本印象さんとは同窓になりますね。私の本籍が彼の生家なので、昨年行く機会があったのですが、とても大きい立派な家でした。ちなみに『かわみちや』で働いたKのお兄さんも美専卒です。

京都美専(美専)とは京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)のこと。「かわみちや」とは、「そばぼうろう」で知られる老舗そば屋。そばぼうろ(そばぼうろう)とは、伝統的な京都の和菓子。堂本印象さんとは日本画の大家として著名な方で京都府立堂本印象美術館が京都市北区に在ります。

◎Kさんは、中学校を卒業後、京都の老舗和菓子屋さんで働いていたんですよね、確か。そこのどなたかと親戚関係にあったという事で。マンガ家という、当時は(現在もか?)不安定きわまりないマンガ家の道などへ進まず、和菓子職人さんとしての人生を全うする事も可能性としては多いにあったわけですよね。ユニークな和菓子をたくさん生み出していたかもしれませんね。

●『夷川豆政』と言う五色豆の老舗の先代の奥さんがKの母の姪に当たり中学卒業後はそこで住み込みで働いていました。(夷川豆政の)社長と言う人は京都の名店を束ねるような役職にあったのでお兄さんも『丸太町かわみちや』というそばぼうろの店で働きました。

◎昭和20年代、そして京都、どこか遠い異国のお話しを聞くような錯覚に捕らわれますね(苦笑)。その老舗和菓子屋さんに勤めながら漫画を描く、という時期も数年間はあったかと思うのですが、想像するに、充実した十代の青春時代を過ごされたかと思いますね。K氏の貸本マンガデビューは1957(昭和32)年で、中学校を卒業してから6年後になる。この6年間、和菓子職人としての修行なり勤め人としての職務の傍ら、マンガ制作に励んでいたものと推測されます。

●夷川豆政の社長が私たちの仲人をしてくれたのですがKは結納金の用意が出来ず、おじさんに出してもらったらしいですが、その時のおじさんの心境は複雑だったと思います。(結婚~入籍は昭和37年前後と推測)

◎京都生まれで京都育ちで、生活の拠点、仕事の拠点を、ずうっと京都に置いていて、結局上京されたのは何年でしょうか?昭和43年から45年頃であるのは間違いないと思いますが。

●上京は、昭和45年3月です。その年の4月に長男が小学校に入学しました。親子3人の上京が昭和45年3月ですね。K氏のみ準備等で一足早く上京していた可能性も捨て切れない。

◎上京は、さいとう・プロの脚本部に入る、という事が前提というかキッカケですよね? K氏より家族(本水夫人・こどもたち)へ宛てた手紙が残されており、見せて頂きました。手紙は、さいとう・プロの名前が印字されている封筒に入っており、さいとう・プロの人が住む家を探してくれた旨、したためてある。

●そうです。その頃は関西の出版社は貸本が廃れて斜陽でしたので、原稿を持ち込んでも殆ど収入になりませんでした。一番最後まで、日の丸文庫に残りました。社長、なかぼん、こぼんさんにはとても可愛がってもらったようですが、可愛がられただけでは食べて行けませんでした。京都時代における、最後のマンガ制作の仕事は、日の丸文庫より出版された「劇画マガジン」への執筆が中心であったと推測している。

◎お子さんは何人?皆さん京都時代に生まれているのですか?

●昭和38年に長男が、昭和40年に次男が共に京都で生まれています。東京へ行ってから昭和46年に娘が生まれました。

◎マンガ制作に関して、京都時代と上京後では大きく変ったことは?

●京都時代だけですね、マンガを描いていたのは。東京に行ってからは、マンガは描いてないですね・・・シナリオというのか脚本というのか、文字だけですね。ですが、脚本を書いて、そのコマ割りもしていたように思います。遺されている制作ノートの類いを見せて頂いたが、脚本形式のモノ、制作メモの類いが多く、コマ割り状態のモノは確認できませんでした。K氏は作品扉に製作年月を記載する場合が多かったが、昭和44年作品も京都にて制作されたようである。

◎京都でマンガ(劇画)を描いている頃は、K・スタジオ作品とすることもあったようですが、アシスタントというか手伝いの方は居たのでしょうか?余談ですが、山森ススムさんは、一度も他人に手伝ってもらった事は無いと仰ってましたね。

● ○○○君というアシスタントがいてベタぬりや背景を描いていました。下だけの名前情報ですが個人情報に配慮して伏字とします。

◎山森さんとは、しょっちゅう遊んでいたと伺いましたが・・・

●山森さんは山科のKの家によく行っていたようです。その頃は携帯は勿論、固定電話も無かったので、帰りにKからの手紙を(山森さんが)預かって届けてくださったこともありました。

◎情緒がある時代ですねえ。

●ふたりは中学の時、家が近かったのと漫画を描くのが好き、共に水泳部で仲が良かったのですが、性格は全く違います。山森さんは堅物ですがKはダンスホールや遊郭に入り浸りの軟派でした。趣味も魚釣りなど多かったですね。

◎そういった軟派な部分が、漫画(劇画)製作にも大きく役立っていると思いますね。貸本マンガの世界でも独特の世界を持ってますからね、K作品は。ジャズの演奏シーンの描写は、Kさんが一番巧みだったと思いますね、昭和30年代の貸本漫画では。ライブの臨場感が、抜きん出てますよね。ちなみに山森ススム氏は、昭和30年代当時にして、ステレオセットを自力で何台も組み立てるほどの筋金入りのオーディオマニアだった。

●好きなプレイヤーはマイルス・デビスやジョン・コルトレーンでした。ヴォーカルではサラ・ボーン、ヘレン・メリル、フランク・シナトラです。今もLPレコードが300枚位残っています。ブルーノートと言うジャズ喫茶でよくデートをしました。

◎山森さんから伺いましたが、ジャズの生演奏を聞ける店が少なからずあったようですね。京都は都会ですから当たり前ですが(苦笑)。ジャズに対する造詣の深さは並大抵では無いな、と推測していましたが、やはりそうですよね。納得しました。

●亡くなる前までモダンジャズが好きでした。

◎昭和30年代といいますと、娯楽としては映画の存在が大きいと思いますが、そのあたりは?御一緒に映画を見に行ったりしたりとは?

●あの頃は映画の全盛期でした。ボブ・ホープや凸凹コンビ物の喜劇、ヒッチコックシリーズなど沢山ありました。『裏窓』、『サイコ』、『北北西に進路を取れ』、『鳥』はKと観ました。何時もお金がないので『今、映画観てるんだけど来ない?』と映画館の中からのお誘いでした。雑誌(おそらく映画雑誌)の切り抜きを台紙(厚紙)に貼り付けた手製のピンナップ(小さめのポスターのようなモノ)を見せて頂く。カラー印刷自体が、今より希少な時代の暮らしぶりが伺えました。情報があふれ返っている今より良い時代だったのかもしれません。

◎お金がないから映画館の中からの御誘い・・・微笑ましいエピソードですね。でも、貸本漫画の収入はそこそこ有ったように思いますねえ。貸本漫画業界全体が、だんだんと斜陽化していくのでしょうが、コンスタントに作品描いてますから。遊び事、ジャズのレコードやら釣り道具やら、手に入れたいモノが多かったように思います。そんなこんなで、いつもお金が無い。それで、つい彼女には甘えてしまう(苦笑)、そんな感じだったように思いますね。相対的に言えば、当時は、レコードや本はぜいたく品ですから、特にレコードは。

◎ミステリーは、仕事の資料として必要でしたでしょうし、趣味的にも好きだったように思いますが、そのあたりは。

●当時、ハヤカワ・ミステリーという月刊誌があり、よく貸してくれました。また、ミッキー・スピレーンのアメリカン・ハードボイルドにはまっていたので(Kの代表作である)針剣太郎はマイク・ハマーを下敷きにしたキャラクターだと思います。ミッキー・スピレーンの『長いお別れ』という本を貸してくれた事があり、その時初めてハードボイルド小説に接したのですが、テンポの早い展開や洒落た会話に、こんな感じ日本物には無いな、と思いました。Kもそんな雰囲気を出したかったのでしょうね。ここで語られている「ハヤカワ・ミステリー」とは、『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』(1956年7月号)が創刊~ 1966年1月号から『ハヤカワ・ミステリマガジン』)に改名、を指すモノと推測。

◎Kさんといえば釣りですよね、やはり。K作品には魚マークが、多くの場合入っているようですね。

●京都にいた頃は5~6人の釣り仲間がいて『かわせみ会』という川釣りの会を作っていました。やっと自家用車が普及してきた頃で、滋賀県、福井県まで釣りに行っていました。釣って来た魚は魚拓にとって、後々は料理までやりました。いわゆる釣果(釣った魚などの記録)を記したノートが残っていて拝見させて頂く。

◎料理もよくされたようですね。それは、和菓子職人時代の経験が生きていたのかもしれませんね。正直詳しくないですが、和菓子つくりも料理も共通点は多いかもしれませんね(苦笑)。料理の腕前もかなりのモノだったように思いますね。和菓子も繊細な感覚が要求されるでしょうから、味覚含めて、和菓子の修行時代に得たモノは多かったかもしれませんね。

●料理は好きでよくやりました。作家の方で料理好きは多いようですね。気分転換になるのと創作力を刺激するようでオリジナリティのある料理をよく作りました。子供達にも好評でした。

◎人間のタイプというか性格としては、Kさんは、仕事の事を家族へ多くを語るようなタイプでしたでしょうか?良し悪しは別に、多くを話す人と、仕事は仕事と割り切って家族には話さない人とが居るように思いますが。

●京都にいた頃はせまいアパート暮らしで24時間一緒にいた事もあり、思いついた登場人物やストーリーをよく話してくれました。東京へ出てからは自宅に仕事部屋が出来たこと、さいとうプロへ通っていたこともあってあまり仕事の話は聞きませんでした。ただ、電車の中で向かいに座った人をよく観察していて、頭のてっぺんからつま先まで面白可笑しく話してくれました。きっと作品の登場人物をイメージするヒントにしているのだろうなと思ったものです。

◎数多くのさいとう・プロ作品に脚本担当者として関わってますが、やはり、ゴルゴ13の脚本を約80本ですか、凄い数書いてますよね。高倉健さん主演のゴルゴ映画の脚本家として名を連ねてますしね。

●ゴルゴの映画撮影の時にイランに行ったと思います。他にはどんな仕事でかは解りませんがハワイにも行っています。

◎さいとう・プロが脚本部を閉鎖して、Kさんは独立するようですが、生活に大きな変化はありましたでしょうか?さいとう・プロの脚本部の存在期間については、情報を持ち合わせていない。さいとう・プロの閉鎖についての公式なアナウンスは存在していないと想像している。さいとう氏のインタビュー等より推測するに、「脚本は内部で用意するより外注するのが好ましい」というさいとう氏の判断があったと考えられる。脚本部自体は昭和55年頃以降には存在しないと考えている。脚本部発足時期は、昭和42~43年頃かと推測。

素人の私が考えても一週間毎に一つのストーリーを考えるのはきついと思いますね。最初は脚本部でやっていたのを外部に広げて多くの中から一つを選んだのでしょうね。007もそうですがアメリカ、ソ連の冷戦が終わればスパイ物のストーリーを考えるのは今までの舞台がなくなる訳ですから大変だったと思います。ゴルゴ13はビッグコミックに毎月2回のペースで掲載。さいとうプロとしては毎週のように締め切りがあったと思われる。

◎いまも昔も、マンガ業界はタイヘンですからねえ。

●Kがこれからさいとうプロの仕事を家ですると言った時、アウトソーシングの形になるのだから今後の生活は厳しくなるだろうと覚悟しました。K自身は家で仕事が出来て通わずに済むので楽になると思っていたようです。結果は私が予想していた通りで収入はガタッと落ちました。

◎Kさんは根っからの楽天家だったようですね。家庭を預かる身としては、結構厳しい時期もあったのでしょうね?

●Kの独立の少し前にローンで家を買ったのですが、収入がぐんと少なくなって大変な事になりました。私も御茶ノ水の方にある出版社や新聞社に原稿を持ち込みましたがうまく行きませんでした。そのうちさいとうプロからの収入はゼロになりました。

◎失礼な質問で恐縮ですが、三人のお子さんが居られるとなると、生活するにも、安定した収入があった方が好ましいでしょうから、奥様が働きに出るようなこともあったのでしょうか?

●子供が寝ている間の仕事をしていました。朝3:00から5:30の朝刊配達や早朝のパン屋さんでのパン作りなどです。生活はとても苦しかったのですが漫画家としてのKが好きだったので収入のために職業を変えてくれとは言えませんでした。

●Kの亡くなる2年前には生活が困窮し、家が競売に掛かる寸前になって、栃木県の銀行の独身寮に管理人として夫婦で住み込みました。日中は時間があるのでKに作品を制作してもらおうと思ったのですが、8月に病状が出て一ヵ月後にあっけなく亡くなりました。

◎そんなに急な話しだったんですね。初めて知る方も多いように思いますね。

●お恥ずかしい話ですが、さいとうプロにいた時以外はずっとお金の苦労をしました。子供が小さかった頃は、私が夜間の洋裁学校で教師をして家計の足しにしたり。また、質屋さんの世話にもなりましたし。東京へ行く前の8年間のうち、2年間は家族4人で私の実家へ転がりこみ生活費まで面倒をみてもらいました。ハクダイは実際に奥様の御実家を連絡先として記載している貸本マンガを確認しています。当時は個人情報の取り扱いが緩やか(大雑把)なので、住所が当たり前に掲載されていました。

◎クリエィティブな世界、マンガ業界は、本当に過酷な世界ですよね。十年持てば大したモノだ、なんて言う人も居ますからね。貸本マンガ(終盤の数年は雑誌)~の描き手として十数年、マンガ(劇画)の脚本担当者として約十年、立派な業績だと思います。

●ありがとうございます。

◎第一線を退いてからは、どのように毎日を過ごすことが多かったですか?多趣味なKさんの事ですから退屈する事はなかったかと思いますが。地域活動に力を注ぐとか?本ばかり読んでいるとか?

●自身はソフトボールチームに所属して仲間が出来て楽しそうでした。女子ソフトの監督もやっていましたし推薦されて地域の体育部の部長もしていました。

◎この写真などがそうですね。気付いてみれば、今の自分もそう遠くないというか、あまり変らない年齢かと思いますが(苦笑)  穏やかに過ごされていたようですね。地域の活動に、すんなりと馴染めるところが仁徳を感じさせますね。会社というか職場を中心に回っている人が多いですからねえ、男性の場合。定年退職後に地域活動に関わろうと思っても、なかなかうまくいかない、なんて話はよく聞く話で(苦笑)。まあ、偉そうな事言える身ではありませんが。創作活動の方は?

●仕事としては採用はされていませんが『江戸小話』、『フランス小話』風のものを沢山書きためていました。その他は近くの川や沼での釣りです。

◎釣りに関するマンガの仕事などはありましたか?結局、フォロワー(追随者、影響を受けた人)が殆んど出なかった(あるいは残らなかった)タイプの絵柄だったと思います。あのタッチで釣りモノのマンガ、エッセイマンガなんかも含めてですね、を描いてもらいたかったですね。

●あれだけ好きで資料も一杯持っている釣りのジャンルを選ばなかったのは読者には興味の無い世界だと思い込んでいたのでしょうね。経験豊かな釣りのジャンルを描いても読者を惹きつけられると知っていたら楽しんで仕事をしただろうと残念です。K氏と同じく日の丸文庫出身の「みやはら啓一氏」(昭和19年生まれ、福岡県大牟田市出身)が1980年代に釣り物を精力的に手掛けているが、あの丸っこいK氏独自の絵で、本格的な釣り物を読んでみたかったと思う。みやはら啓一氏こそが、K氏の絵柄のDNAを強く継承している存在であるとも言えるのではあるが。また釣りマンガ最大のヒット作「釣りキチ三平・矢口高雄」の連載は1973(昭和48)年からの約10年間。

◎独立後はギャンブル物(マージャン)の原作も手掛けていますが・・・・

●マージャンをやっているのを見たことがなかったのでマージャン物を描いているのは知りませんでした。家では子供が高校、中学になった頃、週に3回以上は家族で賭けトランプをやっていました。ラミーやポーカーです。ギャング物でポーカーシーンを入れたらうまかっただろうと思いますね。さいとう・プロ作品のために執筆された脚本が結構な数、残されていました。これらが、独立後の外注・作品であったのか?マンガ(劇画)作品として完成したものなのか?脚本だけで終わってしまったものなのか等詳細は不明。さいとう・プロ作品の各タイトルの全エピソードに精通していなければ判断出来ないと思われる。

◎交友関係などをお聞かせ頂ければと思います。

●京都にいた頃は日の丸文庫に原稿を渡していました。その他2~3社と関わっていたようです。双葉社という名前も聞きました。双葉社より「漫画アクション」が創刊されたのは1967年(昭和42)。双葉社でのK氏の仕事(作品掲載)については確認が取れていないが、京都在住のK氏と双葉社との間で何がしかのやり取りがあった可能性はある。

◎影(A5判)の末期(100~120集)くらいですと、中心メンバーのお一人ですしねえ。新書判の「影」(1966~1967年・昭和41~42)には編集人「京一也」として関わっていますしね。「京一也」というのは、K氏の別ペンネームなんですよね。日の丸文庫の一般流通のB5判雑誌「劇画マガジン」の編集にも関わっていたという情報も存在(ウイキペディア情報)するがハクダイは未確認。

京一也名義での活動は知らなかったですね。 日の丸文庫に関わっていた頃に交流があったのは沼田清さん、山本まさはるさん、山上たつひこさん。よく名前が出たのは水島新司さん、社領系明さん、白井さんです。  

◎大阪、広く言って関西に居たマンガ家さんも、最終的には東京へ出た方が多いですよね。Kさんの昭和45年というのは、遅かった方になるかと思いますが。

●東田健二さん(=白井豊=白井豊士)、沼田清さん、山本まさはるさん、山上たつひこさん、影丸譲也さん、松本正彦さん・・・このくらいでしょうか?東京へ出てきてからも交流があったのは。あくまでも私が知っている範囲内ですが。

◎日の丸文庫で一緒に仕事をしていた方との交友が、東京へ出てきてからも続いていたようですね。昭和40年前後以降、「日の丸文庫」は東京と大阪に拠点を置いており、K氏は主に大阪の事務所と連絡を取って仕事をしていたと思われる。が、東京の拠点ともそれなりに連絡なり交友があったかと想像する。

山上たつひこさんが家へ遊びに来られた時に余興でサインを描いて下さいました。『がきデカ』ブームがピークの頃だったと思います。K氏と奥様、それぞれ別に1枚ずつ為書きされて描かれたサイン色紙(合計2枚)が残されていました。K氏が沼田清氏の訃報について手帳に書き残したメモ書きがそのまま残っていました。沼田氏はK氏と同じ年(1996年)に亡くなっているようです。沼田清はK氏と同様に京都出身で日の丸文庫出身です。沼田氏もみやはら氏同様に、丸っこい絵柄をお持ちの方でした。

◎遺品といいますか、Kさん関連のモノは、ダンボール箱にして3つ分ですか、けっこう整理して残されてきたのですか?

●機会のあるたびに処分してきましたから、置く場所を取るということもありますし、あまり沢山は残っていないんですよ。それに、整理自体も殆んど行っていないですし。 栃木県の宇都宮で銀行寮の管理人をする時に一軒分の家財を持って来て寮の空き部屋に入れていたのですが、亡くなった時にそれらを持って帰る場所が無く、書籍類は古本屋さんに持って行って貰いました。その中には確か『街』、『影』などの雑誌が数冊ありました。

◎古い写真が結構な数残されていますね。

●彼は几帳面な性格だったので、自分のものはきちんと整理していて探せば8ミリフイルムや幻燈のネガが何所かにあるかも知れません。でもこれは東京へ来てからの物で被写体は家族周辺だったと思います。K氏は新し物好きだったと思われます(クリエーターの性質として当然かと思いますが)。相対的にフィルムが贅沢品であった昭和30~40年代という時代を考えると結構大量の写真アルバムが残されているように感じました。

◎Kさんと過ごした時代、いろんな事があったでしょうから、そう簡単に言葉にはできないかと思うのですが・・・・。どんな感じでしたでしょうか?大雑把過ぎですが・・・・。

●亡くなる時まで約35年、彼の近くにいて感じたのは不思議なくらいハングリー精神の無い人でした。人を押しのけてとか、人の裏をかくとかは考えもしなかったと思います。それとツキもなかったですね。例えば家庭環境でいえば、お兄さんまでは良かったのにとか。釣りに関してあんなに経験、知識があるのにうまく時流に乗れずにそれを生かした作品を発表出来なかったとか・・・・。  

◎基本的に育ちの良さ、が出ていたのではないでしょうか?いわゆる御坊っちゃん育ちでしょうか?

●今までKの仕事について深く考える事は無かったのですが、今回の取材をきっかけに振り返ってみますと、私は生活に追われていたとはいえKについて仕事関係、交友関係についての事は殆ど知らなかったと気付きました。ただ反対に同業のマンガ家さんのお話を伺った時、Kは正反対の生き方をした、と思いました。漫画の世界で大きな足跡は残せなかったけれども自分の子供には充分関わってくれましたし、3人の子供達は未だに事あるごとに父との夫々の思い出を楽しそうに話します。私にとっても収入面が人並みであれば100点満点の夫だったと思います。

◎長時間に亘って、貴重な御話しを聞かせて頂きましてどうもありがとうございました。