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劇画工房の生き証人、山森ススム氏インタビュー①K・元美津のこと

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昭和マンガ研究サイト「ハクダイのカカク」開設10周年記念企画 山森ススム氏独占インタビュー

山森ススム氏近影。現在は地元・京都にて螺鈿職人として活躍されている。
山森ススム氏の2014年の近影。現在は地元・京都にて螺鈿職人として活躍されている。


劇画工房の生き証人としてさまざまな関連イベントへの出演依頼も少なくない山森ススム。しかし、地元の京都で螺鈿職人として静かな生活を送る現在、山森氏がほとんどメディアに出てくることはない。それは「マンガ業界から身を引いて久しい自分が今さら表舞台に出ていって過去を語るのは野暮である」という山森氏らしい謙虚さのあらわれだろうとハクダイは察する。そんな山森氏の潔い職人気質にますます魅力を感じたハクダイは、「劇画家・山森ススム」をもっと世間の方々に認知していただきたく、山森氏へのインタビューを試みた。こちらの勝手なお願いに快く応じてくださった山森氏には心から感謝と敬意を表したい。

インタビュー:ハクダイ(2014/4/5)

K・元美津のこと

 

少年時代のK・元美津氏。あどけなさが残る。(写真は山森氏のアルバムより)
少年時代のK・元美津氏。あどけなさが残る。(写真は山森氏のアルバムより)

――今日は、わざわざ時間を作っていただきましてありがとうございます。貸本マンガ史研究(季刊4号・2001年)に寄稿された山森先生の原稿の隙間を埋めるような事ができたらうれしいです。

山森:はい、よろしくお願いします。

――前から気になっていたのですが、K・元美津さんとの出会いについてお聞かせください。

山森:中学校2年生からの同級生やね。二条中学は、二条城のすぐ裏で自宅のすぐ近く。その二条中学で一緒やった。3、4人が引っ越して来て、その中の1人に本水がいた。京都市内の生まれではあるんですけどね。2人でマンガ仲間みたいな感じで、 本水を見て、イタズラ描きみたいなんやってて、似た様な事やっとる奴おるなあ、と思て……そこからの親友やね。K・元美津の本名は本水克世(もとみずかつよ)。 Kはね、かつよですねん。本水・もとみず、克世・かつよ、で「K・元美津/ケイ・モトミヅ」。 洒落てまっしゃろ、マークは魚のマークで。魚釣りが趣味。

少年時代のK・元美津氏。いたずらっぽい笑顔で。(写真は山森氏のアルバムより)
少年時代のK・元美津氏。いたずらっぽい笑顔で。(写真は山森氏のアルバムより)

――Kさんの作品は、自分が知った限りでは、必ず魚マークがありますね。山森先生はヤモリなんですか?たまにマークを入れることがありましたよね。

山森:そう、ヤモリ。「マヌケ・間抜け」でヤモリ。ヤマモリから「マ・抜け」ね。洒落て。 作ったけど、入れたり入れなかったり。Kさんのお父さんは図案家ですねん、西陣のね。図案家とゆうてもいろいろあるんやけどね。早うに亡くなってますわ。

――Kさんが上京されたのは?

山森:分からない。嫁さんに聞いたら分かるかもしれん。
  
――新書版影(5巻まで)、編集人「京一也」というクレジットがあるのですが、これがKさんかなと推測してるんですが。(注:その後、劇画漂流(下)・講談社文庫収録の巻末資料より、この京一也がK・元美津の別ペンネームであることが判明)。
 
山森:新書版の影そのものが、わからない。

――昭和41年くらいですからね、新書版の影は。山森先生は、もう完全にマンガ(劇画)制作をお辞めになっていたのかもしれませんね。

山森:そうかも知れん。

――博之名義で名前を変えたのは?だいぶ後期ですよね。昭和39年頃ですか?
 
山森:姓名判断で。そやけど、あんなことしたらあかんのね。読者も混乱するし。

――本名の「山森博之」名義になって、若干、タッチを変えてますよね。私が把握している限りでは、セントラル文庫と辰巳さんの第一プロからの作品ですよね。
     
山森:ペンネームを変えたんは、画風を変えるという意識からではなく、通常使っている名に変えた。ちなみに改名前の戸籍名は山森洋明(ひろあき)。 

――本名は博之(ひろゆき)ですが、山森ススムとなったのはどういった経緯があったんですか?
     
山森:ペンネームは日の丸の社長がつけた。原稿を持って行った時に、隣に江川進さんが座っていて、江川さんにあやかって、日の丸の社長が命名したの。このオッサンの名前にしてけ、とかなんとで。 

――江川進さん、日の丸文庫に描いていた作家ですね。詳しくは存じませんが、名前は知っています。

山森:小さい、人の良さそうな方やった。

――初期の頃は、「進」なのか「ススム」なのか、判然としないところがありますよね。いかにも、という感じですね。
 
山森:この時分は、編集人がいいひんやと思う。専務がやっていたから。

――作品リストのようなものは残していたんですか?

山森:残していません。執着なくて不熱心やから。佐藤まさあきは事務的にきちんと残していた。

――どこかに誰かが作成して(残して)いるとは思うのですが。

山森:西宮のKさんがよく知ってるから、多分、リストを作ってるかと……。現代マンガ図書館の内記さんも、一緒によう来ましたよ。

忙しい時代と、貸本業界の衰退

大阪・道頓堀の風景(写真はイメージです)。
大阪・道頓堀の風景(写真はイメージです)。

 ――デビューしてからの約10年間(ほぼ昭和30年代)、いろんな思いがあって制作されていたと思いますが……。

山森:ぼくら、絶対テレビの時代が来ると感じ、人気に陰りが見えて、執着なしにすぐ見切りをつけた。嵐の船……ぼくは、早く船を下りた。 ……さいとうさんから、「トグロを巻いて粘っていないと損や」と言われたけど、西陣の仕事が急に次々ときて、自然に軌道ができてしまった。それが40年間途切れなくきて、ペンを持つ時間がなくなってしまい、追われて今に至ったような……。

――素朴な疑問なのですが、当時の月刊マンガ雑誌、少年雑誌についてはどのように感じていたのでしょうか?

山森:(読者)層が違う。ぼくは興味がなかった。読みもせず、買いもせず。ぼくは文章よりも映像に興味があったんやけど、大人になる段階に従来のマンガに飽きてしまって、次に見るものがない空白期、もっとリアルなものを……と考えていた。

――昭和30年前後、鉄腕アトム、鉄人28号とかが始まってますけど。

山森:全く興味がなかった、狙いが違った。

――単行本の方にしか興味がなかった?

山森:単行本でも、高(年齢)層狙いの、物語がわかる人を狙った方が面白いでしょ、イガグリくんとか……子ども向け~大衆向けのものは全然興味がなかった。マンガ書いてるくせに……ストーリーが面白いものばっかりを追っていったから、タイミング良く「影」のサスペンス、スリラーの企画に乗っかってしもたちゅう事やね。「影」の事務所に長いことおるとね、日の丸の社長やら専務らがしゃべっとんのを聞いていたら、ああ、新企画を考えているな……と。新人やから、横で聞いてるだけで……興味あんのになあって。A(A5)判で、短編集で、サスペンスもんで。影の企画は「待ってました」と、狙いそのままの企画。それにわき目もふらず乗っかった。周りの動きは関係なかった。

――基本的な事で恐縮なんですが、スリラー、ミステリー、どちらでくくるべきなんですか? 山森作品は実際どちらになるんですか?

山森:ミステリーの探偵ものではない、サスペンス、あるいはスリラー。大きく言ってミステリーには入るのだろうけど、謎解きはない。ミステリーには、探偵、刑事ものが入るけど、興味なし。謎解きにも興味がなかった。複雑でない物語を、面白く表現する、というのが主な狙いでしょ?事件がどうのこうの……ではなく、心理的なもの。

――サスペンス、スリラー、 という感じでよろしいのでしょうか?

山森:やっているもんがほとんど居なかったんちゃうかな。サスペンス、コマの送り方で読者に知らしていかならんでしょ。次のコマをどう描くか?読んでいる人の心理を引き込むように……最初の何コマで引き込むか。

――やはり、細かい技法は、当時は斬新でも、みんなが同じような事を取り入れていくと、当たり前になっていきますからねぇ。

山森:さいとう・たかをと人気を競ったこともあるんですよ……セントラルの時代かな。さいとうさんと揉めたこともあるし……人気とかなんだか……誤解があったのかなぁ……。(自分は)あんまり陰口言わんほうだけど、なんか誤解があったようで(苦笑)。人気なんか関係ないし、言っても意味がない。 生活アクションが得意でしょ、さいとうさんは。コマの送り方が上手いですわ、構図の取り方は天才的でしょ。わしは、ミステリーだから、全然さいとうさんとは狙ってるものが違う。

――言葉の意味合いの確認ですが、ミステリーの中に、サスペンス、スリラー、探偵ものが入るという理解で良いのですか?

山森:ミステリーは犯罪ものも含んでくる。大きな囲い。刑事、警察が出てくる。サスペンス、スリラーもミステリーには含まれるだろうけど、犯罪がなくても、ドキドキ、ハラハラするものなら、サスペンス。難しいけど、分けろと言われれば、そうなるでしょ。

――サスペンスとスリラーについては?

山森:サスペンスとスリラーは、また違うよね、でも、みんな一緒くたにしてしまう。スリラーというのは、ドキドキさせる、怖がらせるという内容。不気味、ホラー系も入ってしまうね。オカルトも含まれてくるやろね。サスペンスとなると、ハラハラさせて、どうなるんよな?って思わせて。家庭ものでもサスペンスを作る事はできる、夫婦げんかでも何でもいいんやけど。犯罪ものではなく、その中の心理的描写の世界を狙う。

――作品を描く上で影響を受けたものは?

山森:少年時分に見たハリウッド映画やね。終戦後、数年経っても、GIがたくさんいた。アメリカからの物資、食べ物なんかが大量に来た。 何でアメリカは、こんなに物が豊富なんやろう?その時に映画がドォッと来ますやろ。映画館の半分くらいはアメリカ映画になった時がありますわ。日本が食うもんないときに、こんなもん作ってたのか、と。人よりは(映画は)多く観てますよ。無料で入れる方法があってね(苦笑)。

――この本(貸本マンガ史研究4号・2001年)にも書いてますよね。印象に残ってる映画のタイトルなどあればお伺いしたいのですが。

山森:「下宿人」(切り裂きジャックが題材のヒッチコック監督作品。イギリス)、 あれ観たときはゾッとしました。 「第三の男」やヒッチコック作品は好きです。他にはボブ・ホープ、アボット&コステロ、ディーン・マーティン&ジェリー・ルイス、チャップリンなんかも息抜きに。……あえて日本ものを挙げるとしたら、松本清張の作品は良かった。「ゼロの焦点」「点と線」など。映画館から帰ったらすぐ、あらすじをノートに書き残した。清張の作品はすべからく観るようにした。

――自分は昭和39年生まれですから、当時の人の普段の生活ぶりは想像するしかないですが。

映画館
写真はイメージです。

 

山森:この頃は、ヒッチコックがものすごう有名やったねぇ。 映画は見逃さへんかったし、テレビで30分物(モノクロ)を、当時はテレビのある家も少なかったんで、毎週見せてもらいに行ったね。短編雑誌「ヒッチコックマガジン」も毎月買って読んでましたよ。

ヒッチコック・マガジンを読む山森氏。この雑誌は1959年(S34)から1963年(S38)まで発刊されていた。(写真は山森氏のアルバムより)
ヒッチコック・マガジンを読む山森氏。この雑誌は1959年(昭34)から1963年(昭38)まで発刊されていた。(写真は山森氏のアルバムより)

 ――やはりヒッチコックですか。自分の世代だと、リアルタイムではギリギリ記憶に残っているかな?という感じですね。それでは、小説・活字メディアからの影響はいかがでしょう?

山森:小説は、あまり読まない。桜井(昌一)さんはマイク・ハマーをよく読んでたね。 佐藤まさあきは何だったかな?スピレーンかな?。   桜井さんにアメリカの小説家コーネル・ウールリッチ(=ウィリアム・アイリッシュ)に近いものがあると言われた。そうかあ……と言うんやけど、実際、自分は、それらを読まなかったもんだから 。エラリー・クイーン、2人でやってた、は読んだけど。

――近年は、120p一冊を丸ごと描ける人は少ないように思いますねえ、古いマンガは凄いですよね、率直なところ。

山森:何にも見ないで描いてたから。絵が好きやからマンガ家、描いてるのが好きやから……というのは、マンガ家やないね(マンガ家としては続かないね)。物語を、時代ものでも歴史ものでも、自分なりに世間の人に見てもらいたい……ときちんとやれる人がマンガ家として残っているでしょう。絵描くのは優れていても表現が下手な人が多いでしょう。僕は絵はきちっとは描けないけれど、物語を引っ張って行って、最後まで持っていく、読者を惹きつけるのには自信がある方で。一人で映画を創りたい。

――絵が、下手なんてとんでもないですよ……かなりお上手だと思いますが 。

虹書房から出版された山森ススム氏の和本(貸本時代の作品を再収録したシリーズもの)を見せていただいた。

――この和本シリーズはこれまできちんと拝見したことがなかったです、すみません……(苦笑)。山森先生の作品を集めている貸本マニアの方は結構いらっしゃいますよね。

山森:「犬墓村事件」が10万円ついた(某ネットオークションで)……ぞっとした。こんな後世に残るとは思わへんかったし、当時の物語や絵に10万出して下さった方に対し、申し訳ないように思て。

――映画からの影響が大きかったというのはよくわかりました。山森作品は、一般的にサスペンス、スリラーにカテゴライズされることが多いかと思いますが、個人的には、社会派という印象が強いです。

山森:社会派の意味がよくわからないけど、空想的に入ってしまうより、リアルな「もの」、現実に起きうることを描いていった。そういうことでしょう。

――障がい者を扱ったものなど重いテーマのものを比較的多く扱っているように思うのですが。

山森:現実にある事柄を少しフィクション気味にして描くのが面白かったから、そんな風に感じてくれたのかもしれませんね。

山森ススム氏インタビュー ②貸本マンガ家の遊び。に続く