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3.駒画の革新性を強く自覚していた松本正彦

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革新的であるがゆえに模倣され、存在価値を弱めていった「駒画」という技法の儚いが妖しい輝き

「マンガ」という表現ジャンルが成長拡大~進化を遂げる中で、松本正彦の生み出した「駒画」というスタイルの革新性や味わい深い作品群の存在は、マンガの世界ではすっかり忘れ去られてしまっているといえるかもしれない。

「ストーリーマンガ」という技法は手塚治虫が生み出し、「劇画」という技法はさいとう・たかをが作り上げていった……多少でもマンガの歴史をかじった方は、おおよそこのような解釈をしているのかもしれない。
 どうやら、マンガ史が単純化され過ぎると、松本正彦の仕事の重要性は見事に抜け落ちてしまうきらいがあるようだ。

1956年(昭31)当時、松本正彦が試みた手法は確かに革新的だった。今でこそ当たり前になった技法の多くを松本氏は意識して作品に取り入れていた。それが他の作家に影響を与えるだけの力を持っていればいるだけ、多くの作家に模倣されることになる。

松本正彦は自らの技法の革新性を自覚していた。そしてその革新性は、「(当然ながら)直ちに模倣されてスタンダードな表現になっていくだろうから、その当時の人しかその革新性を認識できないだろう
」と自らの置かれた状況を冷静に分析していた。

以下、5つの文章を引用することで松本正彦の生み出した「駒画」の革新性を紹介する。

☆引用その1 「ぼくは劇画の仕掛人だった」Ⅰ部「『影』の創刊」/68pより
 桜井昌一/エイプリル出版/1978年(昭53) 

どうしてこの松本の作品が、洗練された手塚の作品よりも一歩進んだものだと、ぼくたちは考えたのか、疑問に思われるのは当然で、実はぼく自信も、奇怪なことだったと、つい思いたくなるのである。しかし、詳細に松本のマンガを点検して、当時のマンガと対比してみるならば、コマ運びや構図上の相違を感じとることができるだろう。松本の構図は、地平に視点を置いた遠近法を多用して近景と遠景をきわだって対比し、空間の厚みを出している。コマ運びは読者の視線と心理を計算して、あるところでは簡潔に、またあるところでは引き伸ばして動感と臨場感を強調している。奇妙で不細工な絵にしても、手塚の絵よりも量感があるとは感じられないだろうか。

解説劇画工房同人、松本正彦の古くからの仲間、そして松本氏同様「日の丸文庫」に携わった作家であった桜井昌一だけに、確かな説得力を感じる記述である。「奇妙で不細工な絵」という形容には個人的に疑問符が残るが、手塚氏の絵との比較を桜井氏が論考の対象としている点は、昭和30年代初め頃の松本正彦の作品に対してであるということを考えれば妥当なものであろうと思う。

 ☆引用その2
「隣室の男―松本正彦『駒画』作品集」
●証言<松本正彦の仕事>「駒画」はあだ花か!? 盟友・松本正彦の仕事 辰巳ヨシヒロ/538pより
 松本正彦㈱小学館クリエイティブ/2009年(平21)6月/A5判/639p/3.619円(税なし) 

いまでこそ、当たり前の表現方法だが、その作品「隣室の男」は画面に奥行き(遠近感)があり、コマとコマの移行が綿密に計算され、読者の視点が上から下へ、または斜めから俯瞰へと、めまぐるしく変化する画面構成(映画のカメラワーク)がなされていた。

解説劇画工房同人である佐藤まさあきは、著書「『劇画の星』をめざして」の75~78pで、辰巳作品の「革新性」について述べているが「私にはよく松本の魅力がわからない。私と感覚が合わなかったのだろう」とあっさり書き流している。「構成」の巧みさで定評があった佐藤まさあきのこの記述は非常に興味深い。個人的には、佐藤氏の作品中の「間」の取り方においての、松本氏との感覚の相違からの発言ではないかと考えているが、いかがだろう。

 ☆引用その3
「隣室の男―松本正彦『駒画』作品集」
<序にかえて>「映画」は映画の「コマ」から 中野晴行(編集者・マンガ家研究家)/17~18pより

『少女クラブ』で石ノ森章太郎が、コマによる心理描写にチャレンジした「幽霊少女」の連載が始まるのは1956年(昭31)9月号。それよりも早い時期から、すでに松本は心理描写を巧みに使った作品を描いているわけだ。映画が舞台劇ではできない表現形式として生み出したカットワークによる心理描写を、松本は動かないマンガの世界に取り込んで、自家薬籠中のものとしていた。

解説マンガ史における、手塚治虫直系の「トキワ荘」から派生した一連の流れの影響力を否定する訳ではないが、松本正彦の認知度が日本のマンガ史の中であまりに低い事に対し、つい感情的になってしまうハクダイをどうかお許し願いたい。

☆引用その4
「隣室の男―松本正彦『駒画』作品集」
●<序にかえて>「映画」は映画の「コマ」から 中野晴行(編集者・マンガ家研究家)/18pより

惜しむらくは、松本が劇画工房に参加することで、「劇画」というジャンルに括られてしまったことだろう。劇画の元祖である辰巳が松本の駒画から大きな影響を受けて、劇画という新表現を目指したことは間違いない。その意味では、松本こそが劇画の創始者と言えるだろう。しかし、その後の劇画ブームの中で、劇画=派手なアクション、劇画=残酷といった先入観が生まれてしまった。(~中略~)多くの読者にとって劇画のイメージは、松本や辰巳の目指したものとは違ったものになっていった。その一方で、丁寧な構図やカット割りを駆使した松本の映画的表現は埋もれてしまった。

解説この文章だけを読むと、辰巳氏が松本作品からインスパイアされて劇画という表現を志向し始めたような印象を持たれる向きもあろう。しかし、松本が「新しい表現」を確立しようと模索していた時期に、辰巳も同様に「新しい表現」を模索していたことにも留意する必要がある。

☆引用その5
『貸本マンガ史研究5号』
●『図像と画像のせめぎあいの中で 地下水脈としての「駒画」を中心に』/ちだ・きよし
 季刊貸本マンガ史研究2001年6月/貸本マンガ史研究会 

『影』の中心作家たちの編集のよる短編誌『街』(セントラル出版社、1957年(昭32)創刊)の新人コンクール入選作家の中に、劇画といえない奇妙な味の作品を描く一群があらわれつつあった。その中には自らの作品を駒画であると言い切る作家もいた。松本の影響を受けたのではないかと私が勝手に思っている作家を順不同に列記しておく。影響をより色こく受けたと思われる順ではない。九鬼誠、鳴海幸保、永井郁郎、池田耕治、仲川のりお、久我久光、岸膳麿、徳元ひろし、もと狂二、荒木伸吾、星川てっぷ、はしのきはじめ、谷真沙美。
 

解説当時、松本正彦の提唱した「駒画」の支持者だった方は実際のところどのくらい存在したのだろうか?個人的には大変興味をそそられる。松本正彦を支持していた当時のマンガ家が自作を「駒画」と読んだ事実があるかどうか?今後も関心を持っていきたいところだ。