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1.佐藤まさあき 劇画界の「巨星」の生涯を略年譜で追う

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破天荒。マンガ的、あるいは劇画的な人生

1955年(昭30)にデビュー。1959年(昭34)、劇画工房に参加。貸本マンガ~雑誌を舞台に20年以上の長期にわたって人気を博し、劇画家として一時代を築く。代表作は「野望」「影男」「堕靡泥(ダビデ)の星」「黒い傷痕の男」など。 映画化、テレビドラマ化された作品もあり、人気の高さがうかがえる。アウトサイダー、アウトローを主人公に据えた作品が多く、いわゆる”良識”からは縁遠い作風であったが、熱狂的な支持を得た作家であることは間違いないであろう。
野望・復讐・飢餓・挑戦・性愛をテーマとしたハードボイルドやピカレスクロマン、アクションものを数多く手掛けた。人間の欲望や人間社会の不合理などを描き切ったその作品世界は他の追随を許さない。

佐藤まさあき略年譜①幼少期~デビューまで

 1937年(昭12) 大阪市に生まれる。
* 1944~1951年(昭19~26) 愛知県祖父江町へ疎開。終戦後も、同地でそのまま育つ。
*1951~1952年(昭26~27) 大阪府内の姉の嫁ぎ先にて生活する。
*1951~1953年(昭26~28) マンガ同好会「あけぼの会」を主宰する。機関紙「新天地」の発行に係わる。
* 1953~1955年(昭28~30) 中学卒業後に祖父江町へ戻る。愛知県の一宮市の印刷所に就職し勤務。
*1955年(昭30) 大阪市に転居。日の丸文庫(八興)より「最後の流星投げ」(単行本/B6版)でデビューする。

◎佐藤まさあきの原点を知る

佐藤氏自身の自伝等を紐解くと、次のようにまとめられる。

熱心な手塚治虫ファンであった。また、絵物語作品にも愛読作や好きな作者が多数あった。

佐藤まさあき作品を端的に表す言葉として復讐があるが、大阪府内の姉の嫁ぎ先で生活していた際に受けた義兄(実姉の配偶者)からのDVが作品形成の上で大きく影響しているようである。

③小学生高学年時には既にマンガ家としての才能の片鱗を見せていたようである。

疎開中、大阪に住む父と母が空襲に遭い、父は爆撃死母も祖父江で数週間後に死去。その大きな不幸に親族間の遺産相続問題が重なり、人間、そして社会に対する不信感を抱くようになった。

佐藤まさあき略年譜②貸本マンガ時代

1955~1958年(昭30~33)、マンガ家として順当に「貸本向け」の単行本マンガを刊行する。影(日の丸文庫)、街(セントラル文庫)などの雑誌形式の短編集にも多くの作品を発表する。現代モノのアクション、スリラー作品が多いが時代劇も少なからず手がけている。

*1958年(昭33) 日の丸文庫に寄稿していた若手のマンガ家で「関西漫画家同人」を結成。参加メンバーは、佐藤の他に桜井昌一、山森ススム、K・元美津、石川フミヤスなど。
*1959年(昭34) 劇画工房の結成に参加。上京し国分寺に住む。以後、没年まで関東圏に製作および生活の拠点を置く。佐藤の描く作品が、山梨県の貸本組合で不買運動(悪書追放運動)の対象とされ、貸本出版社より干される状態となる。「作品の主人公がアウトローであり、暴力を肯定的に描くこと」がその理由であった。
*1960年(昭35) 『影』の創刊50号を記念して「影男シリーズ」を開始。その後、発表媒体を貸本から雑誌へ変えつつ10年以上の長期にわたり描き継がれる。
*1961~1962年(昭36~37) 「黒い傷痕の男」刊行(全10巻/貸本向け単行本/三洋社/A5判)。
*1962年(昭S37) 佐藤プロダクションを興す。以後、貸本マンガ向けの単行本、雑誌形の短編誌(モーゼル96、劇画マガジンなど)を発行する。
*1963~1964年(昭38~39) 「野望」刊行(全4巻/貸本マンガ向け単行本/佐藤プロ/A5判)
*1965年(昭40) 佐藤プロ、一般書店へ流通を開始する。
*1966年(昭41) 「黒い傷痕の男」(リメイク版/書き下ろし全2巻/佐藤プロ/新書版)出版。

◎人気作家として

貸本マンガ家といえば「貧乏」のイメージが巷間流布している、といえるのかもしれないが、佐藤まさあきに限ればそれは当てはまらないだろう。不調な時期があったとしてもそれは、短期間であったようだ。佐藤氏は、貸本マンガ業界にあっては「勝ち組」であり、結構な高収入を得ていた時期もそこそこあったようである。しかし、マンガ執筆のための取材もしくは趣味(両者の線引き難しい)へ大金をつぎこみ「蓄財」とは縁遠かったようである。

佐藤まさあきは、貸本時代からアシスタントを置いたマンガ制作をしていた。さいとう・たかをのさいとうプロダクションのような徹底的な近代的な分業制を志向していたわけではないと思われるが、それだけ佐藤まさあきブランドの商業的な評価が高かったということだろう。また、佐藤まさあきは「女性キャラクター」を描けないという自覚があり、女性キャラの作画をアシスタントに担当させ、その力量を当てにしていた面があることも否定できない。

③多彩なジャンルに挑戦した作家であった。上記の略年譜では煩雑となるのであえて記載しなかったが、ハードボイルドやアクションの枠に収まらないジャンルの作品が少なからずある。
任侠物青春山岳物、私小説めいた一人称青春物犯罪実録物など。
しかしながらスポーツ物に関してはほとんど手がけていないのではないだろうか?

佐藤まさあき略年譜③雑誌時代

1967年(昭42) 雑誌デビューを果たし、その後10年ほど、人気作家として活躍する。
*「でっかい奴」(原作:福本和也/講談社週刊少年マガジン連載/1967年(昭42)/1号~30号/全29話/単行本の出版はなし/まんだらけコンプレックスにて私家本が販売されたことはある)
*「炎のファイター」(原作:真樹日佐夫/連載:少年画報(少年画報社)/キングコミックス(少年画報社・新書判)として単行本化(全1巻))
*「Zと呼ばれる男」(小学館ボーイズライフ連載/ゴールデンコミックス(小学館)として単行本化(全1巻))
*1968年(昭43)「影男シリーズ」の雑誌掲載がスタート(プレイコミック/秋田書店)。
*1971~1972年(昭46~47) 「野望」(連載:日本文芸社漫画ゴラク)がスタート。貸本版のリメイク作品であるが大人気を博し、掲載誌の『漫画ゴラク』が隔週刊より週刊化を成し遂げる原動力となる。貸本版を大幅にリライトし、全約2200pに及ぶ大作となった。また、この野望のヒットにより5階建ての「佐藤ビル」を建設している(1971年(昭46)9月完成)。
*1972~1977年(昭47~52):「堕靡泥の星」(連載:芸文社漫画天国)  一部分については、外部からの”原作者”を使用しての制作であったようである。また、1979年(昭54)には、「新・堕靡泥の星」が漫画天国に連載されている。
*1974~1976年(昭49~51):「若い貴族たち」(原作:梶原一騎、連載:日本文芸社漫画ゴラク) 

◎雑誌に舞台を移して活躍する

貸本マンガ業界の壊滅を受け、佐藤まさあきは雑誌界へ活動の舞台を移す。この時期、貸本マンガから雑誌への移行を果たせなかった貸本マンガ家も多かった。

佐藤まさあきは雑誌で活躍し、さいとう・たかをと人気を二分した、という言い方も存在する。しかし、時代を色濃く反映していたともいえる作品世界だけに、時代の移り変わりによる凋落も比較的早かった。

佐藤氏まさあき本人は全くの下戸にもかかわらず、鎌倉市に建てた自宅には銘酒の並んだカウンターバーがあり、敷地内に滝が流れていた等、その種の「逸話」には事欠かない。

佐藤まさあき略年譜④波乱を極めた20余年~晩年

1978~1981年(昭53~56) 暴行(レイプ)シリーズなど、多くのエロ劇画を制作する。エロ劇画は「三流劇画」と俗称される事も多かった。 この時期の佐藤まさあきは、非・エロ劇画掲載の作品も多くあったが、さいとう・たかをのさいとう・プロが発表しないような雑誌(いわゆるエロ雑誌や、マイナー出版社による雑誌など・これらの雑誌を軽んじている訳ではない、念のため)に作品を多く発表していた事は間違いない。佐藤まさあきの自伝本によると、税金、佐藤ビルのローン、スタッフへの給料を捻出するために仕事を選ぶ余裕などなかったようである。
*「石の血脈」(連載:竹書房ギャンブルパンチ/1978年(昭53)/半村良の同名小説のコミカライズ)
*「蒼き魔界の果てに」(1978年(昭53)/連載:集英社週刊明星)
*「蘇る金狼」(連載:東京スポーツ社東京スポーツ)大藪春彦の同名小説の映画化とのタイアップ企画。1979年(昭54)、全1巻の単行本が東京スポーツ社より刊行されている)。
*「劇画・帝銀事件」(日本文芸社カスタムコミック /1979年(昭54)11月号/No.4号)
*1979年(昭54) 年内に佐藤プロダクションを解散。10月、新宿に「パブレストラン・劇画館」をオープンさせるも翌年3月頃には閉店を余儀なくさせられる。
*1980年(昭55) 西部池袋線江古田駅前に「喫茶店・劇画館」をオープンさせる(4月)。その後、店の運営主体は徐々に夫人(1984年に離婚)の手へと移っていく。マンガ業を再開するも、業界での「格落ち」状態に直面する。
*1980年代前半頃、趣味と実益を兼ねて「GYE企画」名義でビニ本(成人向け雑誌・エロ本)の出版を手がける。ヌードモデルの調達、カメラマン等、多くの実務を自ら行った。
*1980年頃~(詳細時期不明)、佐藤プロの出版事業を再開する。「堕靡泥の星」「野望・雑誌版」「暴行(レイプ)・シリーズ」などを出版。
*1984年(昭59)~1988年(昭63)頃、「堕靡泥の星」が予想外の再ヒットとなる。
*「新・堕靡泥の星」(連載:秋田書店プレイコミック/1984年(昭59))
*「堕靡泥の星・OVA」(1988年頃(OVA/オリジナルビデオアニメーション/全5巻)が7万5千本のセールスを記録。多額の印税収入を得て家を購入。
*「小説版・堕靡泥の星」を連載。
*1992年(平4) 脳梗塞突発性心筋症を発症。
*1996年(平8) 自伝「『劇画の星』を目指して」(文藝春秋社)を刊行。
*1998年(平10) 「『堕靡泥の星』の遺書」(松文館)を刊行。後に「プレイボーイ千人斬り」と改題(内容の一部修正あり)される。
*2004年(平16) 千葉県内の自宅にて心不全で死去。享年66歳

◎まさに掟破りの人生

①エロ物作品の完成度は一級品。「堕靡泥の星」は言うに及ばず、「野望」(雑誌版)等でも緻密で濃厚な性描写シーンを数多く描いてきた佐藤まさあきが描くだけあって、当然ながら作品の完成度は高い。

1990年代に出した2冊の自伝的著作のうち、松文館より刊行された「『堕靡泥の星』の遺書」は、生々しいエロスが満載の衝撃的な内容である。

「佐藤まさあき」について参考となるweb資料など

Wikipedia
 佐藤まさあきの全容が俯瞰できる。

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 佐藤まさあきの単行本表紙コレクションが大変充実している。