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1.隠れた鬼才、山森ススムの作品世界

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劇画工房の鬼才~初期劇画で残したサスペンス作品は唯一無二

1.現在は京都伝統工芸の螺鈿職人~工芸作家として

「劇画工房」の一員であった山森ススムの名は、リアルタイムで貸本マンガに触れていた世代にはおなじみの名前だろう。貸本マンガ業界での「職業マンガ家」としての活動期間は、昭和30年代のほぼ10年間。西陣織りの職人としての活動は、昭和30年代に始まっており、引箔織による帯や草履、鞄加工など様々な商品を手がける。現在は、その技と経験を活かし、螺鈿彩によるRaden Art の製作に励むと同時に、 新たなマンガ(劇画)の創作へも取り組んでいる。

(1)山森ススム略歴

*1935年(昭10)7月1日、京都府京都市に生まれる。本名は「山森博之」。
*1955年(昭30) 「金龍街の狼八興・日の丸文庫でデビュー。ペンネームとして「山森ススム」を使用する。まれに「山森進」と表記することもあった。
*1958年(昭33) 「関西漫画家同人」の一員として活動。
*1959~1960年(昭34~35) 「劇画工房」の同人として活動。この頃結婚。その後、2男1女をもうける。
*1965年(昭40)頃 マンガ家(劇画家)を廃業。マンガ家の最後期の時期には、本名の「山森博之」名義で活動京都西陣において引箔の帯の意匠制作の依頼を受け、西陣織の職人に専念する。
*1970年(昭和45)頃 抽象的な模様箔~文様による絵箔のデザインと制作、引箔による草履・バッグのデザインと制作を開始する。  
*1975年(昭50)頃 分業ではなく、意匠~箔絵制作~裁断~製品化までの一貫作業に取り組み、螺鈿織(貝を織り込む)を始める。蝶の羽を織り込む「舞蝶」の制作も開始する。
*1980年(昭和55)頃 絹の短繊維を漉いて絹の紙を創る事を考案。「絹紙」として特許申請する。以降、長箔による帯の絵箔や、皮による草履バッグ等のデザイン・制作など仕事の幅を広げる。
*2000年(平12)頃以降 螺鈿と金彩を応用して、現代にマッチしたアイテムの開拓(タペストリー・Raden Art・iPhoneケース等)を始める。同時に、劇画の制作を再開。ずっと消えなかった劇画への情熱をコツコツと具現化する日々を送っている。
 ◎主宰工房のwebサイト「京都箔鳳工房 

 

 

(2)次男の山森英司氏について

次男の山森英司(1967年(昭42)生まれ)は、スタジオジブリにて原画、動画を担当し、「平成ぽんぽこ狸合戦」等数多くのスタジオジブリ作品に携わっている。「猫の恩返し」森田宏幸監督(2002年(平14))では作画監督補を担当。2015年6月現在、シンエイ動画でアニメ製作に携わっている。

 

(3)マンガ制作への情熱

近年は、螺鈿の工芸作家として活動する傍ら、マンガ制作を再開発案から作画まですべて一人で仕上げる。描き溜めた作品の総ページは、優に数百ページ。

2.マンガ家(劇画家)山森ススムに関する主な資料

(1)本人の回想録的なもの

①貸本マンガ史研究季刊4号/編集・貸本マンガ史研究会/ 2001年(平13)3月発行
※山森氏本人による寄稿 『影』と「劇画工房」のころ/6p

②貸本マンガ史研究季刊20号/編集・貸本マンガ史研究会/ 2009年(平21)3月発行
※山森氏本人による寄稿 「劇画」誕生のころ/3p

③貸本マンガ史研究第2期02号(通巻24号)/編集・貸本マンガ史研究会/2015年(平27)3月発行                    ※山森氏本人による寄稿  追悼・石川フミヤスさん/1.5p

(2作品を論じたもの

①貸本マンガ史研究季刊8号/編集・貸本マンガ史研究会/2002年(H14)3月発行

*ちだ・きよしによる寄稿:「闇夜に笑う中年男の肖像 -山森ススムー北大路竜之介混在論」

・山森作品の本質を的確に記述しており、山森ワールドを理解するためには大変有益な資料となっている。

・以下に一部を引用する。

 ・引用1:デビュー作『金龍街の狼』についての記述(一部改行を 行い読みやすくした。)

話のあらすじを今見ると、とくに変わった感じはしないが、いくつかのシーンではその後の山森作品でよく出会うシーンがすでに出てくる。

嵐、停電、雷鳴、鉄橋、黒メガネ、身体障害者、複雑な心理状態の女性、走り回る人々、クルマ、闇夜のなんらかの光、そのなかのシルエット。とくに夜のシーンの描写はこの作品でもうまい。のちのちはもっとうまくなってくる。

なによりも山森ススムが、手塚作品からその動きの描写などさまざまなものをいかに学んでいるのかがよくわかる。劇画表現がリアリズム追求の方向へいくさなかでさえ、山森はリアルさを心理面や小物の絶妙な配置(たとえば、ストーリーと「関係なく」室内に不思議で不気味なマスクを掛けておくこととか)、劇画の濃淡、アングルの多様さなどによって人の心の不思議さを描き、表現の幅を広げていった功績は辰巳、松本同様に大きい。

おそらく山森は、最後まで夜の不思議さに怖れながらひかれていたような気がする。他の貸本マンガ家よりこの人の夜の描写は際立っていたし、優れて怖かった。私はうしろから抱きすくめられる夜の底へ引っぱりこまれるような恐怖体験を日々味わっていたのだ。

 ・引用2:「長い橋の上に立つ」影28集掲載、に関するくだりで次のように書いている。

雨、嵐、雪など悪天候や異常な気象状態を描かせたら、この人は天下一品である。

(3)当時の読者への影響について

◎マンガ家・タレントとして活躍されている蛭子能収が、山森作品について言及している。

・「蛭子能収コレクション 地獄編 地獄を見た男」(マガジンハウス刊行)に収録のインタビューにて、貸本マンガで「山森ススムの漫画が好きだった」と話している。

・詳細は不明だが、テレビ番組で蛭子能収が山森作品について語っていたようだ。山森氏自身がその番組を見ていて驚いたとのこと(山森氏当人からハクダイが直接得た情報である)。

 

(4)貸本時代のポートレイトなど

 ①『影』34集より
さいとう・たかを氏による似顔絵。
さいとう・たかをによる似顔絵。
バイクに跨る山森ススム氏。
バイクに跨る山森ススム。

*写真左さいとう・たかをによる貴重な似顔絵。

 『影』34集に「キング・オブ・スリラー 山森スゝム君へ」と題されたK・元美津による山森ススムの紹介文。山森氏の似顔絵を描いているのはさいとう・たかを。さいとう、Kの両名共に劇画工房に在籍していた時期と思われる。

*写真右:バイクに跨る山森ススム。辰巳ヨシヒロ主宰の第一プロダクションより刊行された「山森博之ショッキングシリーズ①『おれは死人』」の巻末に掲載。

 ②『摩天楼』10集より
「摩天楼第10集」に掲載された見開きページ。
「摩天楼第10集」に掲載された見開きページ。
 

*『摩天楼』(兎月書房・劇画工房編集)の「劇画家のある日」というシリーズ企画のようで、第1回山森ススム。バイクに跨っている写真はこちらがオリジナルのようである(上の第一プロダクション刊行分の写真は、こちらの写真の使い回しか?)。

 

3.独特の作品世界

(1)名物キャラクター「北大路竜之介」

山森ススム作品といえばこのキャラクター?!「キタオオジリュウノスケ」が広く知られている。

上で紹介したちだ・きよしの論考では、北大路について次のように述べている。 

山森ススムの作品の個々のタイトルは忘れてしまっていても、彼のメインキャラクター北大路竜之介は忘れがたい。あるいは北大路の名前を忘れても、あの独特の風貌-黒いコートを羽織り、ふさふさした髪をくせ毛を気にもせずいつもだらんとさせ、ほとんど右側の眼は隠れ、野太い眉毛と深く刻印されている目尻のしわの間で怪しく主張する左眼をもつ「あの顔」なら覚えているという私と同世代ぐらいの人が案外いるのである。

また、上で紹介している山森ススム本人の寄稿でも、北大路のイラストには筆者による次のような一文が添えられている。

このカットの顔に見覚えはありませんか。貸本屋へ通ったことのあるかたなら、作者の名前はわすれていても、きっと記憶に残っているのではないでしょうか?

(2) 社会性の強い作品が少なからずある

リアルタイムでの貸本マンガ読者ではなかった管理人ハクダイの「山森ススム」理解は、リアルタイム読者のそれと大きくずれてはいないか?そんな心配をしながら山森氏について書いている。
日常に潜むサスペンスを描こうとした山森作品からは、社会に対する諦念に近い怒りが滲み出ている。山森氏は京都在住のままマンガ家生活を一旦終えたが、編集者に恵まれればもっと多くの傑作を残すことができたのではないだろうか?