音楽…、バイク……、そして、釣り。
上の写真は若かりし頃の山森ススム。新しい作品の構想を練っているのだろうか。背景には壁にピンナップされた映画俳優のブロマイドが見える。K・元美津氏の自宅で撮影された写真のようだ。山森氏もK氏も無類の映画好きであったことが想像できる。
劇画工房メンバーの中でもとりわけ多趣味だった山森氏のこだわり、そして近年、再びペンを握り始めたことについても興味深いお話を伺うことができた。
山森氏が近年に制作されたマンガやコンテを見せていただく。
山森:某S社のAさんに(コンテを)見てもらった。これをテレビの2時間番組にして欲しいと。コンテとして制作してます。 カメラマンが参考になるように、照明係までやっておるんです。 関係者の方にも見てもらいたい。自信をもって描いているが、何作も引き出しに突っ込んである。
――今も衰えない素晴らしい情熱ですね。マンガ家(劇画家)としての約10年の活動期間中、アシスタントを使用した時期はおありでしょうか?
山森:1人も使った経験はない。
――それは意外ですね。昭和36、7年くらいですか?結構皆さん、その頃にはアシスタント(助手)のような方がいらっしゃったように思うので。一番忙しかったのは?
山森:ずうーっと忙しかった、追いまくられる、という感じだったねえ。だから雑になる、点数描き過ぎて。 内記さんが言うてた……点数は一番多いやろうって。(注:内記さんとは、現代マンガ図書館設立者故内記稔夫氏(ないきとしお)2012年没、の事)
――詳細なリストの公開が望まれますね。実際の当時の生活ぶりは、夜中に描くとか午前中に仕上げるとか、色々とタイプがあるかと思うのですが?
山森:徹夜はせえへんけど、夜はどうしても、遅くなる。昼は遊びに出かける。
――昼間、遊びに行くとなると、Kさんと一緒にということが多かったんですか?
※文中に登場するK、モトミズ、本水、はK・元美津氏のこと。
山森:一緒に遊びに行く事は多かったよね。でも、モトミズと机を並べて、一緒に仕事する、マンガ描くようなことはしていない。モトミズは、近所に住んでるわけではなかったけど、京都市内を転々としてて、ぼくは単車好きで、単車で移動するから、モトミズがどこに住んでいようが関係なかった。しじゅう会うてました。
――Kさんもバイク・車乗ったんですか?
山森:モトミズは免許持っていなかった。機械ものとかには興味なかったね。自分はステレオとかラジオとか機械が好きだった。
――バイクに乗っている写真が、摩天楼に載ってるのを拝見しましたが、クルマ(自動車)も乗られたんですか?
山森:いや、クルマは興味なかった。モトミズは、バイクもクルマも興味なかったね。モトミズはねえ、モダンジャズと釣りが趣味やったねえ。自分もモダンジャズはよう聞きに行きました。
――モダンジャズ?すいません、それはどんな感じのジャズですか?
山森:モダンジャズは、少人数でやるジャズ。3人、多くて6人。グレン・ミラーとかは編成が多いからモダンジャズにはならない。極小の人数でやって聴かせる面白さやね。
――特に(聴く対象で)好きな楽器というのはあったのですか?
山森:あんまり。特にこだわって好きな楽器とかはなかったけど、少人数でいかに聴かせるか?に興味があった。喫茶店みたいな小さい部屋でね、京都市内に(ジャズバーが)何軒もあった。
――劇画工房の中で、ジャズが好きだったのは?
山森:自分とモトミズだけじゃないかなあ?
――Kさんの作品でのジャズの演奏シーンは雰囲気がありますよね。当時の作家では、ずば抜けた臨場感だと思います。
山森:お洒落でねぇ。作品の中でも言葉使いが、ものすごう、洒落てるのが多いでしょう。モトミズは映画観てても、そういうセリフとかが、すごく気になるのね。洒落が好き。 ……彼は気品の高い性格で、女性にもようモテましたよ。服装も洒落たもので、派手ではなく上品なものをさりげなくね。
――Kさんは、会社勤めしてたんですか?
山森:モトミズは「五色豆」で有名な老舗の和菓子屋「豆政」で働いてた。おばさんのところだったのね。Kが働いてるところへ行って、豆炒ってないで、はよう、劇画描け、とか言ってた。「今、影ではこんなんなってるで」とか情報を流してた。はよう(店を)辞めろ、劇画描け、言うてた。今から思えば、引き抜きみたいなもんやね。豆屋で平凡な暮らししてったほうが良かったかもね。
――Kさんは、昭和30年代は京都にずっと住んでて昭和40年代初めですよね、東京へ出たのは。
山森:モトミズとは、モトミズが東京へ行ってしまってからは、ほとんど会わんようになってしまった。どんな生活しとったのかねぇ……。たまぁに電話するだけで、急激に会わんようになってしまった。嫁さんとは時々電話するんだけど。嫁はんは、中学の同級生。
――石川フミヤスさんも京都ですよね 。
山森:3人で駅で待ち合わせして、日の丸(文庫)行きましたよ。石川さんは、普通のサラリーマンという感じだね。まじめで、人のいい感じ。日の丸行くと、「京都の御三家来た、京都の御三家のんびりしてはるわ」……よう言われました。大阪から京都帰ってくるとホッコリするよ。大阪で食事するのは落ち着かない。
――ところで、山森先生の作品には、スポーツものがないですよね。
山森:スポーツものは全然ない。物語の作りようがない。サスペンスには向きにくいからです。私もモトミズも学生時代はスポーツしてましたけど。私は水泳部のキャプテンで国体目指したことも。
――劇画工房の8人は、皆さん、ほんと個性的というか……。
山森:あらためて思うに、劇画工房8人の個性は際立ってたね。 日の丸文庫の、とやかく言って枝葉を切らない方針が大きかったと思いますよ。これが良いとか一切言わない。子どもの育て方と一緒ね。のびのびと育てると個性が出る。委縮させないで本性を引き出す。学校も画一的なやり方はどうかと思う。アメリカの戦後の映画を見て、自由の国やねえ、と思った。
――ジャズを実際にプレイすることは?
山森:楽器を持つという事はなかったねぇ。Kは一緒懸命、ウクレレやっとったけど。ステレオが珍しかったころだからねぇ。
――ステレオをテーマというか、小道具的に使う作品がありましたね。
山森:ステレオは左右の聴き応えを強調するようなの(レコード)が多かった・・・ステレオはまだ珍しかった頃・・・LPが出始めた時代。佐藤まさあきがステレオのイイのを買いよってね。 佐藤さんが大阪にいる時分、よく行った。
――大阪と京都、東北人の私からすると近いように感じますが、意外に遠いですよね。
山森:辰巳さん(の住まい)が、手塚さんの近くで、よく行ってたのがうらやましかった。
――マンガ家になる前は、デビューは1955年ですから、20歳ですよね。
山森:中学卒業後、シャツの会社に勤めてて、東京の方に1年くらい下宿した。東京の地図は、その頃覚えた。 中学のクラスに50人、高校進学は7人、大学進学は2人。そんな時代やねえ。
――Kさんも京都に居た昭和30年代、Kさんとマンガに関する情報交換などされていたのでしょうか?
山森:モトミズとは始終会っていた。情報交換いうか、遊びごと。ほっつき歩いて。四条、河原町、飲み屋歩きは一切なし、自分は飲まないし、モトミズもほとんど飲まない。喫茶店はしょっちゅう行っていた、音楽聴きに。本、映画、音楽の話。 物語の話が多かったかなぁ。 同級生同士で、個性の世界入って、よくマンガ家としてやっていったなあ、と。まあ、僕が引きずり込んだのは事実やけど。絵を描くだけやったらアカンけど、物語もできて自然に……。
――最近、Kさんのプロレスもの(オッス・10集/日の丸文庫)を読む機会があったのですが、Kさんはプロレス、スポーツは詳しかったんですか?
山森:Kは野球見るのは好きやったねえ、こちらがよう付き合わされた。魚釣りも、Kに付き合わされた。
――魚釣りというと、どこで釣るんですか?
山森:渓流と琵琶湖、子ども時分は池釣りですわ。京都は池がたくさんあるんで。池で釣った鯉を風呂敷に包んで帰ろうとしたら、電車の中で鯉が暴れて大変だったなぁ。そういえば(あるところに頼まれて)、「劇画家の釣りバカ日誌」という文章を書いたことありますわ。
――昭和20、30年代の若者が毎日をどうやって過ごしていたか?私なんかの世代だと、なかなか想像できないです。
山森:食料不足の時代だから、魚を獲って食おうと。中学では、ぼくは水泳部だった。モトミズも一緒。中学では、京都市でも上位入賞するくらいだった。そんな時代に、モトミズと2人で水泳部だから、かなり荒っぽい事もしましたよ。 保津川下りみたいな激流を泳いだり。
※保津川=京都府内にある美しい峡谷と舟下りで有名な川
――貸本マンガ家としての生活ぶりはどのようなものでしたか?サラリーマンのような経済的安定はなかったかも知れませんが、収入はそれなりにあったのではないでしょうか?
山森:肉、ハンバーグはふんだんに食べていた。友達は、あんまり食べていないと言ってたけど。……その時代、日本は(敗戦から)かなり復旧していたと思っていたのに、全国ではまだそうではなかったようで……。京都の中心では割りと(物資が)足りていて、私は独身でもあったのでそんなに貧乏感はありませんでしたね。
――バイクがお好きだったんですよね?「摩天楼」に写真が載っていたあのバイクは高価だったんでしょうね?
山森:日本に5、6台しかないスウェーデンのバイク。その後、大きなものに買い換えた。手放してしまったけど、後から欲しい人が訪ねてきてね。失敗したなぁと。高く売れたのに……。
――当時は「音楽聴くのも一苦労、バイク乗るのも一苦労」の時代だったと思うのですが。
山森:サラリーマンより実入りは良かったけど、根詰めてやるからねぇ。差し引きしたらサラリーマンの方が良くなってしまうけど。どうしても全てこなそうと思ったら作品が多くなってしまう。
――音楽聴く装置などは、自分で組み立てたんですか?当時のものは真空管ですよね?
山森:MT管にミニチュアー管、箱まで作った。自由にそういうの作る時間はあったからね。 私が10代のころ、ラジオ放送はNHKしかなくて、民間放送が急に増えた時には新しい電波をとらえるのに5球のスーパーラジオが流行した。何台も作って知人に送った。
――生活費とオーディオ、バイクにお金を使っていたわけなんですね?
山森:ステレオが6セットあった。プレーヤーから、アンプ、スピーカーまでが6セット。MT管バラバラで買って、箱もデザインして色塗って……。作ってるうちに増えて、半分くらい友人に激安で売った。今でも2台くらいあって、それを聴いてるけど、傷んでくる。(経年劣化して)ダメになってくるんだよね。スピーカー変わったら音も迫力も変わる。「音」にはこだわりたい。アンプで聴き分けたくなるけど、今はもう経済的にも我慢するしかない。
――どんな音楽を聴いているんでしょうか?
山森:今聴いてるのは、クラシックとモダンジャズ。クラシックが多い。フィーリングで……癒しで聴いている。聴かない日はない。
――山森先生は貸本マンガ家としては成功されたと思うのですが、辞めてしまわれましたよね?
山森:薄利多売の時代ですから、そんなに、儲からない。マンガを辞めて西陣の方をやり始めて、ずいぶん率は良かったですよ。
劇画家、山森ススムとしての今。
――作品のことでまたお聞きしたいのですが、サスペンス、スリラーではなくスラップスティックというんでしょうか?そのようなスタイルの山森作品を2つほど確認しているんです。 ドタバタ劇で、ギャングが出て来るストーリーなんですけど。
山森:こんなんでも描ける?みたいな感じで、新人賞の選考の時に混ぜて入れた事があってね。15人くらいで選んでたら、桜井昌一が、これイケるって選んでね。
――つのだじろうの「ブラック団」の先鞭をつけてるようなところがあるなぁ、と思いました。
山森:ほとんど思いつきでやっているから、器用さで泳いできた。執着心がないから早く辞められた。佐藤まさあきは、熱心にやっていたね。
――貸本マンガ時代……昭和30年代ですが、原稿は郵便で送っていたのですか?
山森:郵便で原稿は送っていた。原稿は、もうそのままですよね。コピーなんかないから。買い切り。送ったら、そのまま。中学出たばかりの頃に描いた原稿が、最近出てきた。ようこんなんあったねえって持参したK氏に言った。どっかにあったんやねえ、不思議だ。
――山森先生といえば、走っているところのシーンが印象的です。走るシーンは、作家さんそれぞれに個性がありますよね。
山森:辰巳さんが、そんな事言ってるけど、走ってるところ多いのかなぁ(苦笑)。
ここで、近年、山森氏が描かれている作品を見せていただく 。
山森:画風が変わってしまっているでしょう。50年間開いてるだけなんだけど、どうして変わってしまうんだろう。
――山森先生の作品には「 仁くんと健太くん」など、仲の良い2人の少年のコンビものが少なくないように思います。この辺りは何か理由があるのでしょうか?個人的な経験、もしくはある特定の映画が影響しているのではないかと想像したのですが……。
山森:物語の内容や周りの雰囲気の説明を、彼らの吹き出し言葉で進めていくためです。つまり、読者にわかりやすくするための進行役を少年コンビが担っている訳です。
―― なるほど。納得しました。もうひとつ、山森先生の名物キャラといえば北大路竜之介ですよね。このキャラの原型なり、影響を受けた存在などがあれば、教えてください。
山森:出版社の帰りの京阪電車の中で前に座っていた、やたらに眉毛の太いおじさんがヒント。日の丸文庫出版社に持ち込んだ時、ちょうど辰巳ヨシヒロと松本正彦がいて、「おい、このキャラクターいいぜ。悪者にも良い者にも使えるぞ」と言っていたのを覚えています。
――山森先生のフォロワー(ここでは「影響を受けてあとに続く人」の意)の存在についてお聞きしたいのですが。
山森:はい、なんなりと。
マンガ家・タレントである蛭子さん(蛭子能収・1947年(昭22)生まれ)が、貸本時代の山森作品について発言してるようですね。確かに山森作品の影響を強く感じますよね、蛭子さんの絵からは。 そういったフォロワーの存在について、山森先生はどう思われますか?
山森:光栄です。
大変充実したインタビューだった。個人的にうれしかったのは、近年、山森氏が仕事の合間をぬって新作の劇画作品を描いているというお話だ。それで今回、山森氏に特別にお願いして、新作劇画「行方不明」を提供頂き、電子書籍として配信することが実現した。ハクダイはこの作品を拝見した時、今、手描きでこんなにも力のこもったマンガを描ける人は、そういないだろうと感じた。劇画草成期~貸本マンガ全盛期~貸本マンガ終焉期までの激動の10年間、アナログの時代を生き抜いてきた人間の持つ筆の力強さだった。自分の愛する昭和の劇画が確かにまだそこに生きていた。
最近、石川フミヤス氏、辰巳ヨシヒロ氏と、元・劇画工房メンバーが立て続けにお亡くなりになり、もはや、劇画工房の生き証人はさいとう・たかを氏と山森ススム氏だけになってしまった。だからこそ、山森氏からもっと劇画のお話を伺っておきたいと思うし、新作劇画も楽しみにしている。