大発見

 劇画という用語の登場時期について 辰巳ヨシヒロ&松本正彦 貸本時代:電子版を読む


2019年正月の三日目、気の向くままに電子書籍サイトで購入してあった9冊を読んでみました。購入後、初めて読むのも若干ありましたが、ほぼ再読です。

辰巳ヨシヒロが三冊
  目撃者、私は消えてゆく、続私は消えてゆく
松本正彦が五冊 
 サボテンくん、金色の悪魔、都会の虹、勇者黒帯くん、人形紳士
 そして、影第二集の全9冊です。

  以前から気になっていたのですが、辰巳さんの目撃者についてです。扉には「長篇スリラー劇画」「セントラル文庫」の文字があり、その次の見開き頁(こちらも扉と言えるでしょう)で初めてタイトル「目撃者」と手描き文字で描かれます。そして見開き頁の右上に以下のテキストがあります。

 脚本 劇画シナリオ工房

 劇画化 辰巳ヨシヒロ

 編集 あさひ・昇

 そして見開き頁での目次があり、1頁の『導入用のアソビ的な頁』があり、やっと本文になります。『導入用のアソビ的な頁』としましたが、専門的な用語があるのかもしれませんが、当方、勉強不足で分かりません。ですが、ここに57-5と手描きで製作年月らしき数字が入っています。

 青林工藝舎 大発見巻末の年譜の、1957年5月 にある「目撃者/単行本 セントラル文庫/126pがこのebookJapan電子書籍の目撃者に相当するかと思われます。 一般的に流布している辰巳ヨシヒロが、「劇画」という用語を初めて使用したとされる、『幽霊タクシー』街12/29p/セントラル文庫/58年2月刊 (この年譜では1957年12月のところに記載)より半年ほど早い時期の頃になる。

 幽霊タクシーにおいて、劇画という用語が公に使用された、という認識も考えなおす必要があるのでしょうか?目撃者の刊行自体が、だいぶ後になってから(1958年以降とか?)という理由で辰巳さん自身があえて、この作品を無かったモノとしたか?(習作的な位置づけで発表する気がなかったとか?)。辰巳さん自身が、完全に単純に忘れてしまっていたか?

辰巳ヨシヒロ大発見年譜1 (1) 年譜の1957年の5月に 目撃者が記載。

 

辰巳ヨシヒロ大発見年譜1 (2)年譜の1957年の12月に 幽霊タクシー 記載。

 目撃者の現物にあたることさえ難しいので、検証は困難ですね(少なくてもワタクシ的には)

2019.1.4記載

以下2019.1.24追記です。

上記を書いてから辰巳さんので劇画暮らしを改めて読み直していたら、この目撃者について触れていました。昭和32年12月完成の「幽霊タクシー」を「ミステリー劇画」して初めて「劇画」の呼称を明記した、と。続けてカッコ書きで、正確には32年五月発行の『劇画シナリオ工房』と記載、とあります。単行本表紙(と思われる)写真もあり、冒険王付録のために描いた「生き残った男」の四十ページのリメイク版とあります。

 辰巳さん自身は、この目撃者で『劇画』という用語を初めて使用している事を覚えているようですが、まだ、この時点では、自分自身の中で、劇画と新しい呼称で呼ぶことに抵抗があったのかもしれませんね。(まあ、辰巳さん自身がどう考えたか?今となっては知る由もないのですが)。(2019.1.24追記)