桜井昌一

2.桜井昌一、マンガ家以外の3つの顔


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劇画の仕掛け人、桜井昌一に迫る(つづき)

ここでは、桜井昌一の評論家・証言者・出版人としての業績、そして、謎の多い彼のマンガ作品について詳述する。

5.マンガ家以外の3つの顔/マンガ評論家&貸本マンガ業界の証言者&出版人

(1)自著『ぼくは劇画の仕掛人だった』

 /㈱エイプリル出版/1978年(昭53)11月15日発行/980円  
◎Ⅰ部、Ⅱ部、青林堂の長井勝一氏による文章、著者あとがきで構成されている。

①Ⅰ部 「劇画風雲録」は次の11章で構成されている。

「八興」との出会い/戦前のマンガ体験/手塚治虫の衝撃/投稿時代/制作開始!/「影」の創刊/劇画の登場/劇画工房結成/貸本全盛期/独立そして乱作/出版社設立とブーム前夜

 ・あとがきに、雑誌「ガロ」(青林堂)に連載(1971年(昭46)11月号~1972年(昭47)12月号)した「劇画風雲録」に手を入れたものであるという記載がある。

 ・また、「劇画工房結成」の章は、日本の名随筆・別巻62「漫画」(作品社/ 南伸坊編/ 1996(平8)年4月発行)に収録されており、この著作のマンガ史における重要性が伺える。

②Ⅱ部 「劇画人列伝」 9名の作家について書き下ろしている。取り上げられている作家は掲載順に次のとおり。

水木しげる/滝田ゆう/佐藤まさあき/水島新司/山上たつひこ/永島慎二/つげ義春/さいとう・たかを/白土三平

なお、あとがきには、9人のうち、幾人かの部分については、知人に執筆を手伝ってもらった旨の記述がある。

③長井勝一氏による寄稿:律儀と先見性 桜井昌一さんのこと」と題された約10ページ。桜井氏は、マンガの読み手として、素晴らしい「批評眼」の持ち主である旨を記述している。

・引用

ところで桜井さんが凄いと思うのはマンガに限らず絵の鑑識眼というか、描き手をよく見ていることだ。彼がつきあった人間は今では皆一流になっている。彼が出版をはじめたころは貸本マンガから週刊マンガ誌に移行する端境期で、劇画家はほとんどが前途に絶望を抱いていて、中途でやめていく人間が続出した時期だった。そのつなぎを桜井さんがやった。「もうやめちゃおうか」と思うマンガ家もいたかもしれない。そういう時期に単行本が一冊出て、もう一度思い直してマンガの道に止まろうということもあったろうと思う。そういう仕事を数多くしている。そういう仕事を桜井さんは数多くしている。村野守美、真崎守、山上たつひこ、影丸譲也、皆、そういう時期を経て一流になっている、マンガ家も偉いと思うが、桜井さんの果たした役割も客観的にみてえらいものだと思っている、

(2)マンガ評論など

どの程度存在するのか詳細は不明だが、『貸本マンガ史研究13号』には、多数の「桜井昌一によるマンガ評論」が再録されている。個人的には、『ガロ』増刊号「辰巳ヨシヒロ特集」(1971年(昭46))に寄稿した辰巳作品を論じた「迷える子羊を救いたまえ」が出色の出来だと思っている。

貸本マンガ史研究13号に再録された評論のタイトルを以下に記載しておく。

本格探偵劇画について/つげ義春のプロフィルと作品/線相学/都はるみに、パチンコに落語に感動しながら/一人四コマの孤塁を守る/がんばれ”おせん”/迷える子羊を救いたまえ/石子順造さんの思い出/漫画の新しい可能性を求め/不均一な絵の魅力/TOKOだより/《対談》今は夢見たい‥‥(桜井昌一・つげ義春)

上記引用中、つげ義春との対談は、『漫画主義』10号(1972年(昭47))に収録されたものであり、つげ義春ファンにとっても重要な資料となっている。また、「不均一な魅力」は、『別冊新評水木しげるの世界』(1980年(昭55))に収録された物で、水木と親しくしていた桜井昌一ならではの水木論となっている。

(3)長井勝一氏との対談

「『マンガの原点は貸本だね』劇画の仕掛人が語る貸本マンガ盛衰史」長井勝一(青林堂社長)×桜井昌一(東考社社長)

・約10pの対談。文春文庫ビジュアル版 文藝春秋編「幻の貸本マンガ大全集」(1987年(昭62))の巻末に収録。

(4)東考社桜井文庫について

桜井文庫の主要ラインナップとしては以下を掲げることが出来よう。

水木しげる作品「河童の三平」、「悪魔くん」、「化烏」など多数

戦後の貸本文化」梶井純/1976年(昭51)/桜井文庫16

劇画私史三十年」(佐藤まさあき)/1984年(昭59)/桜井文庫33

・佐藤まさあきの後の著作「『劇画』の星を目指して」の原型だと理解できる

再刊・自著「ぼくは劇画の仕掛人だった
  ただし、内容については若干の変更がある。

◎下記のサイトが詳しいので参照していただきたい。

のりっぷ堂本舗→「東考社 桜井文庫シリーズ」のページ

(5)読者家そして理論家~劇画工房作家への影響

10代後半に患った結核~闘病生活が、桜井の人生観あるいはその作品に大きな影響を与えているだろう。そして、闘病中に多くの書物に親しみ、結果的に読書家であった桜井は、デビュー間もない松本清張、ハードボイルド探偵小説「マイク・ハマー」シリーズの米小説家のミッキー・スピレインなどを愛読したようである。辰巳の「劇画漂流」を読むと、桜井の豊富な読書量は、他の劇画工房同人にも表現の上で大きな刺激を与えていたようである。
また、マンガ評論を少なくない数残したことからもうかがえるように、かなりの「マンガ読み」であったようである。ホームランコミックスのバリエーションの広さも、そんな「マンガ読み」としてのレベルの高さの結果であろう。

6.マンガ家桜井昌一のマンガとは?

(1)マンガ作品を読むのは困難

桜井昌一のマンガ作品を読むチャンスは、実際のところ、かなり限られている。現状、最も入手しやすいのは次の2作品と思われる。 

呪われた宝石」桜井昌一/1956年(昭31)

・完全復刻版『影・街』
 小学館クリエイティブ/2009年(平21)/『影』第1集と『街』第1集の2冊の箱入り仕様本 

・電子書籍 ebookjapan/影・第1集

千里眼」桜井昌一/1956年(昭31)

・電子書籍 ebookjapan/影・第2集

(2)ユニーク過ぎる作品?

桜井昌一のマンガは「下手くそなマンガ」と紙一重であったとする見方もあると言っても言い過ぎではないだろう。ユニークという言い方があるが、「度が過ぎたユニーク」という気もする。

 ・以下、二つの桜井氏のマンガに関する文章を引用する。

引用1.前記の長井氏の著述より/『ぼくは劇画の仕掛人だった』収録

桜井さん自信のマンガはどうだったというと、ショートショート風の、むだを省いた作風だった。バックも省いて、ストーリーも削ぎ、たんたんとドラマを親交させていく最後にパッとオチを出すといった感じの、O・ヘンリーの短編のような味のものだった。現在ならともかく、あの当時は素人にはとても受けない。彼は正直だから、受けないのは自分が駄目なんだ、という彼一流の決めつけでやめていったのかもしれない。彼は最初にマンガを描き始めたとき、横山泰三のスタイルを目標にして四コママンガを描き出した。このときの基本姿勢がストーリー物主流の劇画になっても残っていたようにも見える。あこがれというか、三つ子の魂というか、そのスタイルがどこかに残っていたのではなかろうか。中略 横山泰三さんの世界はギャグマンガの世界で、皆こそげとってこれだけが必要なんだというのを訴えるところに面白さがあるが、その根底には絵がしっかりしていなければならない。桜井さんはその辺も見えすぎて辛抱がきかなかったのかもしれない。[/su_quote]

引用2.「とても変なまんが」唐沢俊一著/ ある律儀な劇画人の話━ 桜井昌一 の章より

実は筆者は、古本屋で最初に桜井氏の作品を目にしたとき、「これは、ヘタな人だなあ」という感想を持ったものだった。昭和30年代末期といえばさいとう・たかをや佐藤まさあきらの殺し屋モノの大ブームで、当然桜井氏もそれを描いているのだが、描線が単純すぎてラクガキのように見え、人物など劇画なのだかギャグなのだかわからない。それでも当時から、この人が貸本劇画界で知る人ぞ知る人物である、という知識はあったから、いわゆる眼高手低というか、目ききはできるが自分の才能はイマイチ、というよくあるタイプだと思っていた。ところが、その直後に前記の長井氏の解説を読んで、仰天をした。それによれば、桜井氏はマンガ家を志したとき、『プーサン』などの政治風刺マンガ作家の横山泰三にあこがれ、そのスタイルを目標にしてマンガを描きだした。そして、その基本姿勢を劇画のストーリィものを描くにあたっても崩さなかった(*1)というのである。これも桜井氏の律儀さなのかもしれない。しかしこれは、小説でいえば稲垣足穂の文体で大藪春彦のハードボイルドを書こうとするようなものである。はっきり言えば(言わなくたって)ムチャというものである。ところが、桜井氏はそれをやっていたのだ。登場人物の描線が劇画と思えないほど単純なのも、殺伐たるギャングもののストーリィのどこかに、人を喰ったファンタジー色があるのも、みんな、意識されたミスマッチだった(*2)のである。これにはまいった。それ以来、僕には氏の作品がまったく別物の、ユニークきわまる作品として、面白くて面白くてしかたないものに生まれ変わって見えるようになった。

◎上記引用1、2についてのハクダイによる考察

(*1) “その基本姿勢を劇画のストーリィものを描くにあたっても崩さなかった” とあるが、長井氏がそのように「断言」しているようには思えない。また、桜井氏も、自分のマンガ制作に対する方針(ポリシー)を明言はしていないようだ。だが、唐沢氏が書いているように、“その基本姿勢を劇画のストーリィものを描くにあたっても崩さなかった” のは、ほぼ事実と解釈しても良いと思う。

(*2) 明らかに上記*1と矛盾するが、桜井作品の全てが「意識されたミスマッチ」を前提として制作された、とするのは適切ではないと思う。生活のため、1冊でも返品を少なくするために「売れる」「受ける」作品を描こうと、焦り、苦しみ、挑戦した時期もあったと思う。

ハクダイが読めている桜井作品は、桜井氏の残した作品群のうち、ほんの一部に過ぎないが、作品紹介で紹介した次の2作を読む限り、上に書いたように思えてならない。「挑戦したけど、やっぱり駄目だった……」なまじ目が利くだけに、自分の作品にも粗が見えてしまったのではないだろうか。
全くの個人的な感想だが、「死をよぶ人形」からは水木しげる作品の影響、「暗い鋪道」からは佐藤まさあき作品の影響を感じる。