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「劇画」を検証する。「続・少年マンガのスタイルの変遷」米沢嘉博を引用しつつ(その1)


しかしながら、「劇画」というコトバも、もう既に死語になりつつあるように思う。20代、10代の人たちに実際に 聞いて見た事はないので、なんとなくでしかないが。

ストーリーマンガの成立を1950年頃として、1950~2015年の65年間。劇画というコトバが一般的になったのが1970年とすると、70年を境に20年と45年に分けら れる訳だ、単純に考えて。

別冊太陽 子どもの昭和史 小年マンガの世界Ⅱ 昭和35年→64年 構成米沢嘉博・1996』所収の「続・少年 マンガのスタイルの変遷」という米沢さんの一文が、劇画なるものが浸透していく様をわかりやすく書いて いるので、以下、米沢さんの文より「引用」しながら(及び一部省略・要約)「劇画」についてあらためて考えてみます。、論調を変えず一部文章を変更しております事あらかじめご了解下さい)。

劇画が貸本マンガより一般のマンガ雑誌へ移り、急激に認知度を高めて行く様子が分かり易く説明されています。

(1)貸本劇画が少年マンガ誌になだれ込んでくるのは昭和40~42年(1965~1967年)
*それ以前にも貸本の世界から雑誌へ登場していた作家としては、

①極めて限定的な発表ではあったが、昭和34年頃の  さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、つげ義春、がいた。

②早い時期に雑誌に移ってきた例としては、白土三平(サスケの雑誌少年での連載など)、川崎のぼる、がある。

(2)本格的な「劇画」として雑誌に登場するのは、貸本界が衰退し、月刊誌が危うくなり、週刊誌が急成長 を始める昭和40年(1965年)。

(3)水木しげると楳図かずおがこの年(昭和40年)、少年雑誌にデビュー。劇画調のリアルな描 写は怪奇物と相性が良かった。

(4)実写物(映画やドラマ)のマンガ化にあたっても、より実写らしくという意図を背景に、よりリアルな絵 柄の作家たちが起用されていく。

(5)子どもたちは成長するにつれ、、単純な記号的な絵より、線が多く、情報 量も多い絵柄を好むようになってくる。昭和40年は、時代の変化とともに読者の成長期とも重なっていたことが、劇画を一躍主役へ押し上げていく。

(6)昭和40~44年(1965~1969年)、まだ少年マンガ的なものと劇画は混在していた。記号的に整理され、大量生産 システムへの道を歩み始めていたマンガは、劇画勢力に対し、線の数を増やし、背景を描き込み、キャラ クターを大人っぽくするという方法で時代を生き延びようとする。

(7)生き延びた従来のマンガ家の系譜の代表格が、石森章太郎、つのだじろう、桑田次郎ら。マンガに劇画的なテクニックの一部を取り入れながら変化さ せていく。

(8)このドラスチックな変化の中、旧世代の描き手たちは多くが脱落していく。

以上 引用と要約終わり。ここで、見落としてならないのは、このドラスチックな変化は、短期間(2年から3年間程度)に起こったということだろう。旧世代の脱落は、あっという間という感じだったのではなかろうか?劇画というコトバが、社会に定着する速度より、実際に劇画で使われて来た技法が従来のマンガに定着していく速度の方が速かったと思うのである。

次回も、この米沢さんの一文を引用紹介したい。