ハクダイの興味と関心のみで独断でおススメする只見の名所・観光地~その2です。
只見町 河井継之助記念館/2015年6月下旬訪問
●只見町の公式サイトの同記念館について ⇒ クリック
●運営する㈱会津ただみ振興公社のサイト ⇒ クリック
前書き会津坂下インターチェンジから、国道252号線を南下して昭和漫画館青虫へ向かう途上に位置するので機会があれば、訪れてみたいと思っていました。
しかし、そもそも河井継之助、かわいけいのすけ?って誰?何した人?そんなハクダイですが、訪れてみたところ、面白い面白い。有意義な時間を過ごす事ができました。
河井継之助とは?上記で紹介のサイトや館内常備のパンフレットなどを参考に、ハクダイなりにポイントを要約しますと。・河井継之助(かわいつぐのすけ、けいのすけでは無い)は幕末期の越後長岡藩の家老。
・司馬遼太郎の小説「峠」の主人公として描かれた人物である。小説「峠」は、1966年昭和41年(1966年)から昭和43年(1968年)に『毎日新聞』に連載。
・河井継之助は、戊辰戦争(1968年~1969年)において、東軍にも西軍にも属さずに中立を保ち、西軍側と交渉を行うも決裂。東軍側に付こうと決意し会津へ向かうものの、長岡藩と西軍間での戦闘の際に受けた負傷が遠因となり、会津只見の地にて42歳で客死。
・河井継之助の只見町(当時は塩沢村、現・只見町塩沢)での滞在は12日間であったが、塩沢村民は継之助を手厚く葬り、滞在先であった矢沢家は、継之助が息を引き取った部屋を終焉の間として守り続けた。
※東軍と西軍の定義については諸説あるようですが、ここでは、次のような解釈としました(また、東軍・西軍と呼ぶ事自体、好ましくないとする意見もあるようです)。 東軍:旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟、 西軍:薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍。
以上、ハクダイなりにまとめてみましたが、幕末ファンなり歴史好きの方からしたら出来の悪い要約になっているかもしれませんが御勘弁下さい(涙)。
見どころしかし、この記念館、幕末ファン、歴史好きにとっても結構マニア度が高い存在と言えるかもしれませんね。ハクダイにとっては完全にハードル高い感じですね(苦笑)。
新潟県長岡市に在る「河井継之助記念館」の公式サイトは ⇒クリック
只見町にある方と混乱する人が多いかと思います。かくいうハクダイもその口です(苦笑)。館内の写真撮影の許可が頂けましたので、アップします。
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山塩資料館/2015年6月下旬訪問
前書き河井継之助が客死した地が「塩沢」であった事から勘のよい方は気付かれているかと思います。この塩沢の地は、山塩が取れる場所であったのです。この山塩資料館は河井継之助記念館に隣接するカタチで建てられています。海塩では無く山塩というのが重要だと思います。製塩は、最も基礎的な工業の一つと言えるでしょう。産業史、工業史のなかでも、重要な位置づけが可能な資料館だと思います。
「塩対応」なる言葉が最近は使われているようです。そっけない、愛想のない、冷淡な接し方(応対)のことを「塩対応・しおたいおう」と呼ぶようです。
ですが、塩(しお・塩化ナトリウムを主成分とする)は、和製英語「サラリーマン」の元となっている英単語「salary・給料」が、塩を意味するラテン語「salarium サラリウム」に由来し、古代ローマ時代は塩が貴重であったため給料として「塩」が与えられていた、いう事に象徴されるように人間が生きていく上では欠かすことのできない大事なモノです。
*また、「敵に塩を送る」という言葉もあります。上杉謙信が敵である武田信玄方へ「塩を送った」とする故事については、江戸時代に入ってからの創作であり、実際にはそのような事実は無かった、とする見方が近年は有力のようです。
とにかく、塩は大事なモノです。そして、現在の日本では、塩(塩化ナトリウム)は、海水よりイオン交換幕法及び水分蒸発による濃縮によって、工業的に大量生産されています。
塩をそのソース(入手元)で分類すると、海の塩と、山の塩に分けられます。
①海の塩: 海水から作られたもの
②山の塩: 岩塩及び湖塩(どちらも太古の時代は海だった場所であったと考えられる)
日本における塩の採取が、いつの時代から始まり、また、その本格的な生産がいつ始まったのか?という問題は、ハクダイの手に余る、とても難しい問題なので、とりあえず置いておきまして、日本では古来より「海の塩」が多く流通していた事は間違いないと考えられます。
ポイント只見・塩沢の製塩は、山塩に分類されます。そして、山塩資料館に収蔵されている 塩沢の製塩図及び説明書は、只見町の重要有形民俗文化財に指定されています(平成13年4月23日指定
以下、館内掲示の紹介文などを引用要約しますと次のようになります。また、次のブログも参考になります ⇒ クリック
・弘仁年間(820年頃)、弘法大師が、塩が無い村人を憐れんで錫杖(しゃくじょう)を突き、塩泉を掘り当てたという伝説が残っている。
・その後、村人は塩を自家用ないし他への販売用として製造するようになり、明治38年(1905年)には、本格的な生産工場を建てるまでに至った。
・昭和25年頃、塩沢の村民が製塩の様子を後世に残そうと、製塩工程を図示化し説明文を作成した。これが現在只見町指定の文化財となっている。
・山塩に関する資料は全国的にも例が少なく、特に近代における山塩の生産技術を克明に表現した絵は貴重な記録といえる。
・滝発電所の完工(昭和37年・1962年)により、塩井が水底に没し塩沢における製塩の歴史は終わりを迎えている。
何枚か写真を撮影してきましたので掲載します。
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