2019年(平成31年・令和元年)は劇画工房の結成より60年となる節目の年となります。劇画工房という組織の存続期間を何月から何月までとするか、いろんな見方があると思うし、いろんな説があっても良いと思います。いや、そもそも、劇画工房の存在自体に対する見方も、人それぞれでしょう。極端な事をいえば、昭和漫画史にあって、それほど大きなトピック(論題・出来事)では無いかもしれません。ですが、やはり、7人(8人)の漫画家が、劇画工房を標榜した事は、記憶なり記録されるに値する事だと思います。実際昭和39年生まれのワタシ・管理人ハクダイは、貸本漫画を直に体験しているわけではありませんが・・・。
時間的、経済的に、なにかと制約が多い生活を強いられておりますが、平成から令和へ移行するGWは、最大10連休とはいかないまでも、それなりの連休を取ることが出来たので、劇画工房結成60周年記念として私的に(勝手に・苦笑)関西方面へ出掛けてみました。
主要な目的は3つです (1)愛知県稲沢市祖父江町訪問 (2)京都の山森ススム先生宅訪問 (3)大阪での漫画収集仲間との会合(飲み会)
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(1)愛知県稲沢市祖父江町訪問 劇画工属の一員として活躍した劇画家・マンガ家『故・佐藤まさあき』の縁/ゆかりの地である愛知県稲沢市祖父江町を訪ねる。佐藤まさあきの戦争中(太平洋戦争・第二次世界大戦)の疎開先(いわゆる縁故疎開先)が現・稲沢市祖父江町である。祖父江町には佐藤まさあき氏の父(一家、一族)が住んでおり、佐藤まさあきは戦争末期より約7年間、小学生から中学生の多感な時期をこの祖父江の地で過ごしている。佐藤まさあきの実兄(故人)の長男の方、即ち佐藤まさあきの甥である方に案内して頂く。祖父江町は2005年に稲沢市へ編入されるが、合併(編入)時点では、中島郡祖父江町。敬称は一部省略させて頂きました。
(2)京都の山森ススム先生宅訪問 劇画工房に参加した8名の漫画家のうち、2019年5月現在御存命の方は、さいとう・たかを氏と山森ススム氏の御二方のみです。漫画家山森ススムの活動期間は昭和30年代の十年弱(1956年〜1964年頃)と短かった。だが、京都西陣織物関係の職人、螺鈿細工の工芸作家として昭和そして平成の時代を職人気質と共に生き抜いて来たのが山森ススム(本名山森博之)である。古き良き昭和の時代の雰囲気そのままに、令和の時代も、まさに匠の技をふるい続ける螺鈿細工の工芸作家として活躍する一方で趣味として漫画製作を続けており、その力強い筆致は80歳を過ぎた老人のモノとは思えない。
(3)大阪でのマンガ収集仲間との会合 劇画工房結成60周年とは関係無いのですが(苦笑)、漫画収集家の仲間の方とお会いして情報交換するものです(苦笑)。まあ、古いマンガの話題なら、ある程度ついて来てくれる頼もしい仲間たちとの集まりですのでワクワクです。
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●稲沢市祖父江町を訪ねる(平成30年(2019年)・4月29日(月)
故・佐藤まさあきの甥御さんに当たる佐藤雅之さん(さとうまさゆきさん)に名鉄・国府宮(こうのみや)駅までクルマで迎えに来て頂く。朝7時過ぎという休日の早い時間で恐縮至極。故・佐藤まさあきの本名は佐藤雅亘(さとうまさあき)で、字面的に一文字しか違いのない甥御さんです。(以下、文中、煩雑さを避ける意味で「甥雅之」さんとします。ちなみに『雅之』の名は『成功者・佐藤まさあき/雅亘』にあやかっての命名とのことです。
佐藤まさあきが縁故疎開先として身を寄せ、終戦間際の昭和19年(1944年)より中学校を卒業するまでを過ごした土地が、ここ祖父江町。佐藤まさあきの父親(及びその親族)は、この祖父江町で暮らしていた。佐藤まさあきの生年は昭和12年(1937年)・9月。
名古屋駅から、そんなに離れていないけど、結構いなかに来たなあ、という感覚になります。管理人ハクダイの住む南東北の福島県いわき市(太平洋ぞい)は、平野部(平地部)が比較的少ない場所なので、東京へ行く度に、さすが関東平野、どこまでも見通しがイイ?的な感慨めいたモノを持つのですが、濃尾平野も、やっぱり立派な平野ですね(苦笑)。
甥雅之さんのクルマで漫画喫茶へ寄りモーニングタイム。愛知県なのか、中京地区なのか?良く分かりませんが『モーニング文化』的なモノがあるとは聞いていたので、興味津々ですね(というより、この遠征の楽しみの一つ)。甥雅之さんとお会いするのは、これが2度目です。一度目は2014年に稲沢市図書館での佐藤まさあき展の時でした。サンドイッチを食べながら、佐藤まさあきの事、亡くなられたばかりの佐藤まさあき氏の実兄の記本隆司さんの事などあれこれ話してもらいました。(記本さんの亡くなったのは2019年の年初?。記本隆司さんは、世間的にほぼ無名ですが、佐藤まさあきの苗字が違う実兄です。佐藤プロのマネージャーとして、佐藤まさあき作品の制作に大きくかかわった人物です。佐藤まさあきの商業的な成功の一番の功労者が記本さんだと思います。
8時半過ぎ、二軒目のモーニング。甥雅之さんが言うには、最初は別のお店を考えていたようですが、ルート的には、これもありか?みたいな(苦笑)。さきほど、食べたばかりでまだ一時間ちょっとしか時間が経っていないのですが、モーニングを梯子するのでしょうか? こちらも、エエッツ、もう?、また?、モーニングですか?と尋ねたい気持ちはあったのですが、2食目も行けそうだったので口にはしませんでした(苦笑)。とにかく、小倉トースト、ウマかったです。家族連れなのでしょうか?近所の人同士なのでしょうか?高齢者の姿が比較的多く、数人以上で談笑していたのが印象深かったですね。8時半という早い時間ですから、この光景はインパクトありました(少なくても、自分の住む地域では、ほぼ見られない光景かと思います)。
甥雅之さんの自宅のマンガ本が棚一面に飾られた部屋へ案内して頂きました。佐藤まさあきの著作が、数百冊は保管されているでしょうか?二人の息子さん、甥雅之さんのお姉さんが読まれたマンガもあるようでして、全体としては数千冊のマンガがあるかと。そして、甥雅之さんが大事にしておられる、佐藤まさあき作品の原画も特別に見せて頂きました。単行本の表紙に使われたカラー原画が、ケッコウな数ありまして、いやあ凄い凄い(苦笑い)。 幾つかの佐藤まさあき作品関連スポット(名鉄山崎駅など)にも案内して頂き、有意義な祖父江町訪問でした。
参考データ〜佐藤まさあき氏の縁者まとめ(佐藤まさあき氏の甥の雅之さんよりの情報を整理)
・父:明尾(実家が祖父江にある:大阪で空襲で死去)
・母:ミユキ:徳島県生まれ(旧姓記本):大阪で空襲により火傷⇒祖父江へ逃げる⇒数年後祖父江で逝去。
兄弟姉妹(全6人)は全員が大阪生まれで、以下年長者より
1.長女:メリヤス工場を営む男の元へ嫁ぐ。その男よりDVを受ける。佐藤まさあき氏が折に触れ語っている。
2.次女:大阪で空襲により死去。
3.三女:千代子⇒父明尾の実家(祖父江)に疎開
4.長兄:明正⇒大阪で空襲に会う⇒祖父江へ母と逃げる⇒戦後も祖父江に住み続ける⇒子が佐藤雅之さん
4.次男:隆司=記本隆司(きもとたかし)⇒父明尾の実家(祖父江)に疎開 母の旧姓記本を名乗る。
5.三男:雅亘=佐藤まさあき⇒父明尾の実家(祖父江)に疎開
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佐藤まさあきの作品傾向、ジャンルは意外に広い。佐藤まさあき作品をそれなりに読んできた方でも意外に思うくらい広いかもしれません。まあ、アウトサイダー(局外者)、アウトロー(無法者)が主人公である作品の印象が強い佐藤まさあき作品ですので、読者のイメージが固定化されやすいという傾向はあると思います。
怨念、復讐が作品のバックボーンとして存在する作品が、比較的多いことは間違いない。
作者自身の生い立ち、境遇を色濃く反映している作品として次の二作が挙げられる。この二作は、佐藤まさあき自選私劇画作品集『夕映えの丘に』2002年4月・青林堂発行(発行者は蟹江幹彦)に収録されている。⇒『青林堂版自選作品集(2002)』。この二作品では、実在する名鉄(名古屋鉄道)の山崎駅( 祖父江町内にある)が作品中に描かれるなど、作者自身の経験を多分に反映させた作品と推測される。
(1)自伝的な要素が強い作品(1)夕映えの丘に(52ページ)
基本データ ●初出:週刊少年サンデー(小学館)掲載1970年1月18日・25日号 No.4・No.5 合併号に読み切り作品として掲載 / 参考:週刊少年サンデー 1970年1月18日・25日号 No.4・No.5 合併号に収録されている連載作品は次のとおり(記載抜けの可能性あり。一部読み切りモノもあるかもしれない。調査不足で詳細情報なし) ベンツにくわえタバコのガン★ファイター /川崎のぼる 、くたばれ!!涙くん/石井いさみ、デビルキング/さいとう・たかを 、もーれつア太郎/赤塚不二夫、天才バカボン/赤塚不二夫、誓いの旗/ながやす巧、ターゲット/園田光慶、おろち/楳図かずお、風屋敷/中城けんたろう、でっかでか/小山田つとむ
●単行本化など (1)佐藤まさあき自選私劇画作品集『夕映えの丘に』2002年4月・B6判・青林堂発行(発行者は蟹江幹彦)に収録
(2)『ほるぷ平和漫画シリーズ20 焼跡のうた』に収録 ほるぷ出版1984年 B6判 収録作は次の①②③の三作。
①ほたるの墓 野坂昭如・原作)/吉森みきを・画
②白い雲は呼んでいる 永島慎二
③夕映えの丘に 佐藤まさあき
(3)親族による自費出版の小冊子(B6判)、2017年作成。2ページ分を割愛している。
※夕映えの丘に・あらすじ 戦争中に祖父江町に疎開した少年が、過酷な運命に向きあいながらも、前向きに力強く生き抜いていく姿を描いた作品で、作者自身の経験を元にフィクションとして再構成された作品であろう。漫画家としての成功を掴んだ男「藤本まさる」は戦争中に大阪より疎開先として身を寄せた愛知県の某市某駅に降り立った。そこは、小学生3年生から、中学校卒業までの多感な時期を過ごした、父の生家があった土地であり、墓参が帰郷の目的であった。藤本は、まっかな夕焼けを眺めながら、遠い昔へ思いを馳せるのだった。
ホームシックとなった主人公の小学生・藤本まさるの前へ、転校生・西田晃一が現れる。西田も疎開者であり、両親を空襲で失い、さらに西田本人も空襲で右腕を無くしていた。同じ疎開者同士ということもあり、藤本と西田は親密な関係を築きあげる。
恵まれた土地の上に根を生やさず、不幸にも崖の途中に根を出してしまった松に自分たちの境遇を重ねあわせ、西田は藤本まさるへ語り掛ける。『あの松のように生きていこうではないか!!』と語りかける。
「あの松は、他の松をうらやむこともなく、自分の運命をのろうでもなく、その不運にみごとに打ち勝って、まっすぐに空に伸びているではないか」セリフをそのまま引用。
二人は無事に中学校を卒業し、藤本まさるは漫画家の夢を叶えるべく大阪へ出る。卒業後も文通を通して、お互いを気遣い励ましあう二人。数年後、漫画家デビューを果たした藤本であったが、西田は自ら命を絶ってしまっていた。
※夕映えの丘に/解題めいたモノ 作中、藤本まさるが処女作として描き上げる作品のタイトルは『最後の流星投げ』であるが、この作品タイトルは、まさに佐藤まさあきのデビュー作のタイトルである。このことからも、事実なり作者の考え方感じ方が、作品に多分に盛り込まれていると言ってよいかと思います。ですが、西田が不幸な境遇の比喩として用いた『不幸にも崖の途中に根を出してしまった松』は実在しないようです。佐藤まさあきがヒントとした故事なり文献が存在するのかもしれませんが、ハクダイの手には余ります(苦笑)。
自伝的な要素が強い作品(2)『墓標』(59ページ)
基本データ 初出については、『青林堂版自選作品集(2002)』には『s36「ハイ・スピード」三洋社』と記載があります。また、佐藤まさあき著『劇画の星を目指して』の作品リストにも、1961年作品とあります。ですが、これらは誤りのようです。手持ちのオリジナル掲載誌(貸本として出版)では、作品扉部分には1962.11と手書きによる記載があり、1962年(昭和37年)12月〜1963年(昭和38年1月)にかけて刊行とするのが、正しいように推測します。三洋社ハイスピードNo.4(4号)に掲載。奥付には、発行日のデータは無いが、三洋社の発行人として長井勝一の名がある。長井勝一氏は、青林堂ガロの編集長として広く知られている。
左ページ:ハイスピードNo.4の表紙。表紙の画は佐藤まさあきによるもの(その旨記載あり)。右ページ:目次(内容手引とある)部分。カット画は辰巳ヨシヒロ。
※墓標・あらすじ 人気映画俳優として活躍する芦村健史は、母の七回忌(法事)のために電車に乗って帰郷する途にあった。叔父よりの七回忌を営みたい旨の葉書を貰っていたのだった。しかし、芦村健史本人は叔父を憎んでいた。父が電気会社を経営しており裕福に育った芦村であったが、自宅の火事により父は帰らぬ人となり、芦村一家は財産を失ってしまった。母と十歳の健史は叔父の家に居候することになるが、父に大きな世話を受けていたにもかかわらず叔父は健史母子を冷遇し、都会育ちな母は過酷な農作業に適応できず、過労によって亡くなってしまったのだった。健史には、村の人間によって疎外され、いじめられ、そして身内の叔父にも冷遇されたという苦しみと悲しみの思い出しか残っていなかった。
山崎駅に降り立った健史を、ばんざい斉唱と歓迎の幟で出迎える村人たち。だが、どこか他人事のように、ばんざい斉唱を素直に喜べない健史であった。中学卒業と同時に村を飛び出て東京へ出た健史は、苦労の末に独力で映画スターとしての成功を掴んだのだった。
法要の後、住職に寺への寄進(寄付)を提案される健史は、『この村を愛している しかし、村の人は愛していない』と言い放ち、寄進を断る。
養鶏のために資金が必要であると叔父は健史に借金を申し出るが、『土下座してくれたら、くれてやってもイイ』と強気に出ると、叔父は嬉々として土下座するのであった。母の墓前で『あの憎い叔父を土下座させてやりましたよ、復讐しましたよ』と健史は言い放つ。だが、『成功を喜んでくれるのはお母さんだけだ、どうして死んでしまったのか』と泣き崩れるのだった。
※墓標/解題めいたモノ 映画俳優として成功する主人公芦村健司の造形には、作者自身の姿が大きく投影されていると想像するのは、それほど不自然では無いと思う。夕映えの丘の主人公は、成功した漫画家という設定で、自伝的なスタイル・体裁を取っているが、こちらは映画俳優であり、自伝的なスタイル・体裁とはなっていない。佐藤まさあき自身、自身が世間的に成功した漫画家であるとは、思っていなかったという事かもしれません(描かれた当時は)。閉鎖的な村社会と叔父に対するネガティブな感情が作品を支配しており、夕映えの丘に描かれた戦争の悲惨な体験については一切触れられていない。
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『夕映えの丘に』&『墓標』でモデルとされている建物など
濃尾平野内の周縁部に位置するという形容が適切かどうかは、幾分疑問が残りますが、ハクダイの地形感覚でいえば、案内して頂いた祖父江町は、やはり『平野部』という印象ですね。自分の住んでいる所と、どうしても比較してしまいます。北側に位置する岐阜県までもう少しで、(険しい山々の詳細な位置関係は分かりませんが)、広い平野も終わりがあるんだ、あの高い山、そして山の向こうにはどんな人が住んでいるのか?という好奇心ないしは恐怖心を引き起こすには十分な地形かもしれません。自分の体験からの類推になってしまいがちで、農村といえば、見通しの悪い山間部を勝手にイメージしがちなのですが、『夕映えの丘に』で描かれている土地(世界)も、実際、案内してもらった祖父江町(地域)も、見通しの良い平地部ですね。
●2019年の山崎駅の様子 4月29日に撮影した名鉄の山崎駅の写真が次の三枚です。
次は、『夕映えの丘に』で描かれた山崎駅です
そして、次は『墓標』にて描かれた山崎駅になります。
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※祖父江の地を巡ってみて
半鐘付きの火の見櫓(ひのみやぐら)のようです。火の見櫓としては背の低い部類になるかと思います。平地部が続くので、この高さでも十分事足りるという事でしょうか?祠(ほこら)らしきモノ、石碑のようなモノがあったりと、歴史を感じさせる場所です。無知無学無教養なハクダイの手には余ります(全く手に負えない・汗)。
下は『夕映えの丘に』より。案内してして下さった、甥の佐藤雅之さんによると、右下のコマの部分が火の見櫓のある場所に相当するようです
下の写真は、ぎんなん畑とネギ畑。祖父江の地は、ぎんなん・銀杏の名産地として有名とのことです。
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資料:地元でもよく知られた存在である佐藤まさあき
稲沢市の市制60周年記念事業として平成30年(2018年)に開催された『稲沢・尾張 名家の墨蹟展』で佐藤まさあきが取り上げられています。下記はA4判横サイズの図録。左側が表紙で右側が目次部分。目次の26番に佐藤まさあきの名がある。
以上2019.7.4記す
(2)京都の山森ススム先生宅訪問 (3)大阪でのマンガ収集仲間との会合にはついては後日アップします。現在作成中です。