未だ未知数のマンガ家、松本正彦
「松本正彦」の名前は、彼の遺した作品の全貌も含め、多くの人に認知されているとは決して言えない。
しかしながら、松本正彦の存在は自分にとって思春期の鬱屈した時期から現在に至るまでコンスタントに気になっている特別な存在なのである。
近年、彼の待望の復刻本が出版された。
この、640pにも及ぶ作品集、「『駒画』作品集 隣室の男」(松本正彦/2009年(平21)6月/小学館クリエイティブ)は個人的に大変うれしく思っている。
まず、作品の収録内容の充実度である。
「劇画バカたち!! 第1話」の再録はもとより、貸本時代の作品を多く収録し、雑誌での活動へ移行してからの作品もしっかり収録されている。さらに著名人による松本正彦作品論も多数掲載され、松本作品の革新性が非常にわかりやすく紹介されている。
松本正彦が提唱していた駒画とは一体なんであったのか?この1冊を丁寧に読み込めば納得できるだろう。
それでもこの作品集の刊行によって、当人への評価やマンガ史での位置づけに変化があったかといえば、さほど大きな変化は見られなかったのではないかと思う。個人的に高く評価したい作家だけにそれは大変惜しいことである。
松本氏の功績への深い敬意を表し、いくつかの関連書籍を参考にしながら、松本正彦の業績を紹介させていただくことにする。
また、このサイトを制作中であった2014年(平26)8月から9月にかけて、初期の貸本マンガを中心に松本正彦作品が20点ほど電子書籍化されているので、本サイトを読んで興味を持たれた方はぜひとも購入していただきたい。
1.活動歴概要
(1)1934年(昭9)生まれ-2005年(平17)逝去。
(2)劇画工房同人である。
劇画工房同人として、さいとう・たかを、佐藤まさあき、辰巳ヨシヒロなどと共に活躍。さいとう、佐藤、辰巳ヨシヒロの3氏と比較すれば、その知名度はかなり低いであろう。しかし実際のところ、劇画工房が結成される1959年(昭34)の数年前に、松本正彦はさいとう、佐藤、辰巳の3氏よりも先に人気作家となっている。松本のデビュー年が前記の3人より若干早い事を差し引いても、1955年(昭30)年前後の時期、上に挙げた後の劇画工房同人4人の中で最も人気の高い作家であったということは、出版実績で明らかである。
(3)「駒画」の提唱者である
辰巳ヨシヒロが「劇画」を提唱したように、松本正彦は新しいマンガ表現の呼び名として「駒画」を提唱していたことで知られており、のちの辰巳ヨシヒロの「劇画」提唱にも大きな影響を与えている。
駒画を提唱していたがゆえに、松本は「劇画」を標榜する劇画工房へ参加することに抵抗があり、劇画工房への参加は1959年(昭34)の結成より数ヶ月遅れとなり、松本は8番目、最後の劇画工房同人となった。また、松本が劇画工房から離脱したのは同年9月頃であり、作品中に劇画工房のマークを掲載していた実質的な劇画工房参加期間は劇画工房に参加した全8名中最も短い。
(4)「劇画バカたち」の作者
1979~1984年(昭54~59)に断続的にシリーズ連載された「劇画バカたち!!」は、劇画創成期の記録として重要な「まんが道」的な実録風のコミック作品である。この作品は辰巳ヨシヒロの「劇画漂流」の連載開始より15年以上も早い時期に執筆されている。
(5)過去の出版物からの松本正彦の業績についての記述など
*引用1:自作単行本「かあちゃんキック」(ひばりコミックス/新書判/1972年(昭和47)11月発行)の表紙見返しの著者紹介文より引用
*引用2:「マンガと劇画のかき方」(五島慎太郎著/ひばり書房ジュニアパンチ⑤/1975(昭和48)6月発行/159p)より引用
2.松本正彦略年譜
(1)松本正彦略歴1:デビューまで
*1945年(昭20)太平洋戦争の影響で大阪府堺市に避難した後、神戸で同年8月の終戦を迎える。以降、1957年(昭32)に上京するまで神戸に住む。
*1950年(昭25)、神戸須佐野中学校を卒業。経済的な理由より定時制の神戸市立湊西高等学校へ進む。学業の傍ら、昼間は会社勤めをする。
*1951年(昭26)手塚治虫の自宅に訪ねる。
*1953年(昭28)「坊ちゃん先生」(東洋出版社、後の八興/日の丸文庫)にてデビュー。制作当初のタイトルは「ユーモア学校」であったが、出版元の要請により「坊ちゃん先生」と改題。
(2)松本正彦略歴2:駒画の誕生
*1955(昭30)1~2月、自作の短編作品を集めた単行本「都会の虹」を刊行したことが、のちの『影』発刊へとつながる。
*1956年(昭31))、貸本屋向けの出版物である雑誌スタイルの単行本『探偵ブック 影』創刊号に「隣室の男」を発表。同年夏、大阪天王寺区にて、日の丸文庫より単行本を出していた松本正彦、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロの3名の若手マンガ家で合宿に似た共同生活を行う。同年9月、自作単行本「吸血獣」にて、「新しい漫画」を表す呼称として「駒画」という名を用いる。辰巳ヨシヒロが「劇画」という呼称を用いたのは、1957年(昭32)であった。
(3)松本正彦略歴3:上京~貸本マンガ家として
*1959年(昭34)4月、同年1月に結成された「劇画工房」に参加。「駒画」を提唱していたため「劇画」を名乗る事への葛藤があり「劇画工房」には3ヶ月遅れでの参加となる。劇画工房同人8名のうち、松本が8人目の参加者である。
*同年9月頃、松本、さいとう、辰巳の3人が劇画工房を離脱する。松本は「劇画ファスト・プロ」を発足する。
(4)松本正彦略歴4:貸本マンガ業界の壊滅~大人漫画へ
*1966年(昭41)東考社よりギャグマンガ「ヘソゴマくん」を出版。『土曜漫画』に「東海道ヤジキタ道中記」などの連載を持つ。
*1973年(昭和48)11月、ひばり書房より書き下ろし単行本「かあちゃんキック」を刊行。
*1973年(昭48)4月、ひばり書房より書き下ろし単行本「パンダラブー」を刊行。この作品が最後の書き下ろし単行本である(のちに復刻版が刊行される)。同年、 『別冊リイドコミック』、『土曜漫画』などに精力的に執筆。
*1974~1977(昭49~52) (調査不足のため詳細不明)、明文社、蒼竜社、辰巳出版などに官能系の短編、連載の仕事を「稲賀隆志」名義で数多く手がける。ペンネーム「稲賀隆志」(いながたかし)は、逆から読むと「しかたがない」となる。
(5)松本正彦略歴5:劇画バカたち!!、さいとう・プロ作品に脚本で参加~切り絵作家への転身
*1980~1983(昭55~58) (調査不足のため詳細不明)、さいとう・プロダクションの脚本スタッフとしてさいとう・プロ作品の制作に携わる。クレジットは「須磨鉄矢」(すまてつや)名義。一部「須摩鉄矢」名義もあるようである。
◎脚本スタッフとして携わった作品としては、
・「ゴルゴ13」ビッグコミック/小学館
・ 「俺は空輸屋/俺は”はこびや”」カスタムコミック/日本文芸社
・ 「サバイバル」週刊少年サンデー/小学館
・「ホテル探偵ドール」ビッグコミック増刊/小学館
・「すて石の松」漫画ゴラク/日本文芸社
・「実録第二次世界大戦」/ビッグゴールド/小学館
◎ウイキペディアの「ゴルゴ13」の項目には、松本が脚本として係わったのは5作(話)として次の記載がある。(その部分をそのまま引用)
・須摩鉄矢 別名 須磨鉄矢(5)=松本正彦の別名 「156話 ニューヨークの謎」「175話 獅子の椅子」「185話 予期せぬ人々」「189話 リトル・ハバナ」「214話 スパニッシュ・ハーレム」
*1987(昭62)切り絵作家へ転身。1994年(平6)に切り絵とシルクスクリーンによる最初の個展を立川高島屋にて開催。それ以降は切り絵作品の個展を継続的に有名デパートなどで開催する(一部、スクリーンスクリーン作品での開催もあり)。
*1999年(平11)にはフジテレビ番組「ペット百科」に切り絵作家として出演するなど、切り絵作家として確固たる実績を残す。
*2000年(平12)に自主制作レーベル・ひよこ書房より500部限定で「パンダラブー」の復刻版が発売される。2002年(平14)7月には、描き下ろし新作を追加して青林工藝舎より再刊される。 *2005年(平17)2月14日永眠。