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劇画工房とは何か?

劇画工房についてのまとめ

1.劇画工房とは?

 (1)ひと言で説明すれば

   1959年(昭34)に結成されたマンガ家たちの団体である。

(2)「劇画工房」という組織の存続時期

1959年(昭34)1月から翌1960年(昭35)の2月まで。存続(活動)期間についてはいくつかの説がある。

(3)結成の発端

辰巳ヨシヒロが自作品を「劇画工房」作品として発表しており、山森ススムの「わしらにも『劇画』という名称を使わせてくれ」といった趣旨の発言を発端に、実質的に辰巳ヨシヒロ個人に限定して使用されていた呼称を、広く開放し集団で使用することになった。
1959年(昭34)1月、兎月書房からの短編集刊行計画について、関西在住のマンガ家5人と辰巳ヨシヒロは大阪府内辰巳ヨシヒロ実家にて、会合を持った山森ススムがその席上にて上記案を提案。また、辰巳以外の5人は関西漫画家同人に所属していた。

 

(4)劇画工房同人は何名か?

7名でスタートし、その後、1名が加入。3人が同時に脱退し、1人がそれに続く。4名のみが残留となり、自然消滅的に組織は消滅した。

2.劇画工房の成り立ち

(1)劇画工房の体裁

関西漫画家同人」5名と「TS工房」、「劇画工房」の3つが合併したという形で組織はスタートしている。
TS工房は「さいとう・たかを」の、劇画工房は「辰巳ヨシヒロ」の、それぞれの「個人工房」であった。
関西漫画家同人の5人は、石川フミヤスK・元美津桜井昌一佐藤まさあき山森ススムである。ただし、関西漫画家同人には、この5名以外にもメンバーがいた。

(2)加入が遅れた松本正彦

松本正彦は、自作を「駒画工房」作品として発表しており、(これも実質的に松本の個人工房)、「劇画」と呼ぶのを嫌って「駒画工房」を継続した。その後「駒画工房」を解消して、「劇画工房」へ8人目のメンバーとして参加する。個人工房として考えれば「駒画工房・松本」の方が「劇画工房・辰巳」より古い

(3)劇画工房同人の経歴

PDFファイル「劇画工房同人略譜-(ハクダイのカカク)」を参照のこと。

「劇画工房同人経歴」ハクダイのカカク

(4)劇画工房同人の変遷

PDFファイル「劇画工房同人の変遷~(ハクダイのカカク)」を参照のこと。

劇画工房同人の変遷

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(5)資料:劇画工房発足に際しての業界関係者への案内葉書 

Wikipedia 「劇画工房ご案内」

・辰巳ヨシヒロの著書「劇画大学」より引用。

劇画工房発足の案内文(劇画大学P25)
劇画工房発足の案内文(劇画大学P25)

 ●●(3)結成の発端の本文について、2021.11.15修正 「ぼく」を削除、「わしら」、「趣旨の」を加える。 ぼくわしらにも『劇画』という名称を使わせてくれ」といった趣旨の発言を発端に・・・・ ☆修正経緯;「ぼく」は不適切では?という指摘を受けた。ぼく、としてしまったのはハクダイミスと言わざるを得ません。山森氏自身のみへの使用許可を求めているような印象を与えてしまい、見過ごせない過誤と考え修正しました。※引用1:劇画漂流(下巻)青林工藝舎p296での山森氏の発言を引用すると、「勝見(注;辰巳ヨシヒロの事)さんの使うとる『劇画』なあ あれをわしらにも使わせてくれへんか!?」、「みんなの作品に『劇画』とつけて発表したらおもしろいと思うんですわ」。※引用2:劇画暮らし(本の雑誌社、2010年)p249より引用 「するとその場で山森ススムが意外な意見を述べた。ぼくが使っている「劇画」をみんなで使用してはどうか、というのだ。

3.劇画工房結成の背景

劇画工房に参加した全8名が、結成に至る経緯や設立・参加の動機などについて何らかの形で記録を残しているのであれば、公正な記述が可能になるかと思うが、残念ながらそれは叶わない。
以下は参考文献を参考に管理人ハクダイが再構成した文である。

(1)「劇画」という新呼称による差別化

「漫画・まんが」は「子ども向け」のメディアであるという社会通念があった時代に、「非・子ども」に向けに制作された「新しい漫画」であるという差別化を計る意味で造語された「劇画」を描く集団として設立。
マンガというメディアが巨大化、進化と深化を続けていく過程で、マンガと劇画の違いなどは無いも同然となった現在からすれば、状況が理解しにくい事ではあると思う。 

(2)既存のマンガ出版業界に対する主張、口実

「漫画・まんが」といえば、中央、東京の雑誌出版社によって出版される作品が一般的であった時代にあって、従来の「漫画・まんが」ではダメなんだ、これが新しいんだと主張するための口実、錦の御旗としての「劇画」。

(3)商業的な実利

出版社への売り込み時に「集団」、「グループ」であった方が有利であった。

4.「新しい漫画・まんが」の呼称

(1)提唱されていた呼称

従来の「漫画」との差別化を図る意図で「漫画」に替わる呼称が提唱されていた。

①辰巳ヨシヒロ   : 劇画(げきが)
②松本正彦     : 駒画(こまが)
③さいとう・たかを : 説画(せつが)

(2)呼称というものの難しさ

実際のところ、呼称というのは単純なようで難しい問題である。例えば、まんが漫画マンガ、どのように表記するかで印象が大きく違ってくる。コミックという言い方も定着しており、事態はさらにややこしくなる。また、定着したとは言い難いが、石ノ森章太郎氏によって「萬画・まんが」と表記する事もかつて提唱された。

以下を引用しておく。(Wikipedia 石ノ森章太郎の項より)

1989年(平1)、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。

5.劇画工房の果たした役割

(1)劇画工房の影響力

劇画工房という形態で8人がまとまって活動することで、既成のメジャー漫画シーンへ与えた影響力は大きかったと想像する。

(2)ある種の「芸術運動」として

複数の作家が「劇画工房作品」として作品を発表したことは、ある種の「芸術運動」、「新ジャンル運動」とも言えるものであり、この運動(活動)により、大人がマンガを楽しめる文化、社会通念上大人がマンガを読むことが許容される時代の到来が早まったとさえ言えるだろう。

(3)新しい名称・カテゴリーの効果

いかなる表現ジャンルにあっても、新しい何かが登場した時、多くの人は、どう受け入れてよいのかをためらい、時には拒絶してしまう……そんな事は往々にして見受けられるだろう。そんな時、これは新しい「☆☆☆」というカテゴリー、ジャンルなんだよ、と理解の枠組みや存在を提示された途端に受け入れやすくなる。良くわからなくても分かったような気になってしまうものかもしれない。

(4)資料

しかし、実際のところ、「劇画工房」の影響の大きさについて言及している記述、証言はさほど多くない、というのが実情であろう。
とりあえず以下に2つの記述を引用する。

①資料1佐藤まさあきの著作より。「『劇画の星』をめざして   誰も書かなかった『劇画内幕史』」(1996年(平8)/文藝春秋社)より引用(一部省略)。

私などは、忠臣蔵の討ち入りみたいにみんなが結束したはずの劇画工房がたった八カ月で解散なんて、いささかカッコ悪いと思う。中略 けれど、対外的にはこれで充分、劇画工房の役目は果たしたのかもしれない。 というのも、劇画工房の貸本界に投じた衝撃は大きかったからだ。 たった八カ月であったが、衝撃度はそれを上まわるくらい劇画工房は暴れまわったのだ。 東京の作家などにあとで聞いても、「えーっ、たった八カ月のことなの?もっと長かったと思った」いうような感想を洩らしている。 また、それまで”大阪マンガ”と”東京マンガ”といわれていた、まったくスタイルの違う両者を結びつけ、同じにしてしまった功績は大きい。大袈裟でなく、明治維新後の廃藩置県で藩というものがなくなり、全国が統一できたほどの功績である。 だが、これで劇画工房の果たす役割は終わったので。これで良し、とせずばなるまい。

 管理人ハクダイによる注記。引用文中、~たった八カ月で解散~とあるが、これは、主要メンバーであった、さいとう・辰巳、松本の三氏の脱退を受けて「解散」とみなしている節がある。
 

②資料2辰巳ヨシヒロの著作より。「劇画暮らし」(2010年(平22)/本の雑誌社、258P)より引用

劇画工房のシンボルマークは、作品のブランド化に役立ち、読者には劇画工房マークの入っている作品はカッコいいと評判だった。一種のステータスシンボルとしての役割を果たしていた。

6.劇画工房としての活動~短編誌の編集

編集活動概要

短編誌の編集においては、工房の同人7名ないし8名が共同編集したような印象を持つ向きもあるだろうが、一人で一つの短編誌の編集を行うというのが実情だったようである。
 一人の担当編集人がまた別の人に編集を受け継ぐというような事はあったようである。

(1)摩天楼 「劇画工房・編集」

1~14号(集)まで月刊ペースで刊行

兎月書房より刊行。兎月書房より新しい短編誌の編集を辰巳ヨシヒロが依頼され、その件を関西漫画家同人の5名に相談した事が、「劇画工房」結成の発端となっている。
ハードボイルド誌としての性格を持っていた
・刊行開始時期は、昭和34年2月頃と推測(調査中)

(2)無双

兎月書房より刊行。刊行開始時期は、1959年(昭34)6月頃と推測(何号までの刊行かは調査中)

◎「劇画工房・編集」の「時代物」誌として刊行
 

(3)少年山河

あかしや書房より刊行。刊行開始時期は、1959年(昭34)6月頃と推測(何号までの刊行かは調査中)。

◎「青春物」誌として刊行

(4)準編集として

辰巳ヨシヒロの著者「劇画大学」によれば、”準編集”として、『街』『顔』『街別冊』の3誌が掲げられている。詳細については調査中。

 

7.「劇画工房」の実態

(1)原稿料均等割りと積み立て

辰巳氏の著書に次のような記載があるので引用しておく。

劇画工房に入った原稿料は、総額の10パーセントを天引きして積み立て金としていた。これは将来、劇画工房で自主出版するための資金に充てる予定だった。あとの90パーセントは、ページ数で割って平等に原稿料を各メンバーに送金した。ぼくは出版社との交渉や編集を一手に引き受けていたが、編集費などは一切取らなかった。メンバーの出来るだけ多くの支払いをするために、余計な経費は捻出できなかったからだ。

(2)同人間での「劇画工房」に対する認識のズレ

①同人間でも、「劇画」に対する解釈、見解がまちまちであったようだ。当然、劇画の制作方法に対する方法論も各人で異なっていたようである。

②認識のズレの本質

劇画はエンターテイメントか?表現か? 
……一言で要約すれば、「劇画」に対する認識のズレの本質はおそらくその辺りにあるのだろう。 

呉智英氏が、「辰巳ヨシヒロ傑作選」(BEAM COMIX/2014年(平26))の解説で、マンガを大学生や社会人が読むようになった1960年代後半のマンガ(劇画)状況について、次のように書いているので引用しておく。劇画工房の存在した1950年代終わり頃より約10年を経た時期についての記述であるが、認識のズレを説明する意味で、十分有効な内容だと考える。

劇画を描く作家の中にも、それぞれの傾向があった。壮大なドラマを、映画製作のような分業体制で描くのがさいとう・たかをであった。(中略)一方、社会派文学のように、時代の矛盾を敏感に受け止めて生きる人々の喜怒哀楽を陰影豊かに描く劇画もあった。辰巳ヨシヒロの作品群である。

③これは誤解ではないだろうか?

さいとう・たかをの劇画工房時代以降の突出した人気の高さとその作品の完成度ゆえに、「劇画工房」を「さいとう・プロダクション」の原型ないしは、前身的なもの、と捉える向きが少なからずあると思うが、その解釈は適切ではないとハクダイは考える。
とはいえ、さいとう氏が当時、後の「さいとう・プロダクション」のような体制で「劇画工房」を運営する構想を持っていた事は、ほぼ間違いないと思われる。